Collaboration Energizer | #混ぜなきゃ危険 | 八木橋パチ

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2022年読書棚卸し

今年はこれまでに92冊の本を読みました。冊数的には例年通り(去年より微増ですが、誤差の範囲)ですね。

本はおれにとっては特別な存在。他メディアに対するものとは違う、特別な愛があります。だってこんなにも間口が広くって、情報が凝縮されていて、そしてハンディ。まだまだ他より抜きん出てた存在だと思っています。

そんなわけで、来年もたっぷりと本を読もうと思っていますが、その前におれにとっては恒例の、年に一度の読書棚卸しを(なお、ここに挙げているのは、すべて「おれが今年読んだ本」であって、「今年出た本」ではありませんので悪しからず)。

 

 

 取材・執筆・推敲 書く人の教科書

すごい本です。何度かシビレが止まらなくなりました。そしてこの分厚さにもかかわらず「もっと! もっと!」となります。
「書く人の教科書」というタイトルにある通り、何かを書く人にとっては必ず何らかの学びがあります。そして書くことにこだわりや思いがある人は、その強さに応じた分量の響きがあるでしょう。

ライターは、「編集者の読みたいもの」をかたちにするために雇われた、下請け業者ではない(…)なぜなら、作家やライターに求められているのは、「編集者の読みたいもの」を超える原稿だからだ(…)編集者の期待を上回ってこそプロのライターなのだし、「この人の期待を上回ろう」と悪戦苦闘する行為が、 すなわち共同作業なのだ。 

ひとつの原稿を10日かけて書こうと、1日で書いてしまおうと、読者にとってはどちらでもいい(…)10日かけて書いた原稿に10日ぶんの評価と報酬を求めるのは、タイムカードを手にした時給労働者の発想だ。時間や労力に応じた評価・報酬を求めることもまた、時給労働者の発想だ。時給に生きていないかぎりライターは、「時間」と「労力」から自由であらねばならない。

 

クララとお日さま

「人間を人間たらしめているブラックボックス」がテーマであり、その周辺としての社会や制度、そして人間そのものに対する問いかけがたっぷりと詰まった一冊。人間よりも人間らしい行動原則を持つクララは、人間の勝手なあったらいいな、あって欲しいなが具現化されたモノ。AIが人間に近づくことと、人間がAIに近づくことと、私たちはどっちをより恐れるべきなのだろう? 

 

ヘルシンキ 生活の練習

大人と子ども、日本とフィンランド、常識と不思議。違っているところをそのまんまにしないできちんと見ると、必要だけどほっぽらかしになっていたものがいろいろと分かるものなのかもしれない。ちゃんと、困っているときは声を上げよう。そして声を上げている人に向き合おう。声を上げるのに躊躇している人を積極的に支援しよう。

誰かが苦しいなかでもがんばるのをみて、私たちは喜んでいないだろうか。誰かが公私の別なく、すり減らしてがんばってくれることに、私たちは感謝していないだろうか。
そこで「あなたががんばらなくちゃいけないのは、仕組みに問題があるんじゃないですか」なんて言うのは、熱意を削いだり揶揄したりする、悪意ある発言と取られるだろう。個人ががんばらなくても問題がないようにするために、公的な制度があるはずなのに。

私は、思いやりや根気や好奇心や感受性といったものは、性格や性質だと思ってきた。けれどもそれらは、どうも子どもたちの通う保育園では、練習するべき、あるいは練習することが可能な技術だと考えられている(…)もっとあっさりと「ここはもうちょっと練習しましょう」と言われるだろう(…)「根気がない」という「性質」は、単に「何かを続けるスキルに欠けている」ということになる。そして、そのスキルを身につける必要があると感じるなら、練習する機会を増やせばいいことになる。

 

海をあげる

それにしても、とんでもないものを渡されてしまった。「申し訳ないけど受け取れません」と言っても、それはもうすでに言葉にして手渡され、受け取ってしまったのだ…。常にそれを覚えていることも、考えて暮らすこともきっとおれにはできない。だけどせめて、波の音がどこかでしたときは、おれはおれの海に思いを馳せ、しっかりと見守るようにしよう。

近所の小学生と立ち話をしているとき、私たちのちょうど真上をパイロットの顔が見えるほどの近さで軍機が飛んだ。軍機が飛び去ったあと、「びっくりした! うるさいね!」と私が怒ると、「うるさくない!」とその小学生は大きな声で即答した。その子の父親が基地で働いていることを、あとになって私は知った。
近所に住む人たちは、みんな優しくて親切だ。でも、ここでは、爆音のことを話してはいけないらしい。切実な話題は、切実すぎて口にすることができなくなる。

私は静かな部屋でこれを読んでいるあなたにあげる。私は電車でこれを読んでいるあなたにあげる。私は川のほとりでこれを読んでいるあなたにあげる。この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる。

 

声の在りか

おれの「鉄板」、一番好きな作家さんである寺地はるなさんの作品。どれもすべて好きなわけですが、今年読んだ中でベストはこの作品かな、と。いつも通り途中で「読み止める」ことができず、そしていつも通り読みながら泣きました。
この作品は親の子どもへの眼差しを通じていろんなことが描かれているんだけど、改めて人はいつでも成長できるし、成長は他者評価に基づくものではないな、と。

「子どもを悪いもの、悪いことから守るのは大人の役目ですよね」
要の言葉に大きく頷く。そのとおりだ。
「でも子ども自身がなにかを感じて、自分で切り抜ける力を持っていると信じることも同じくらい大事なんじゃないですかね」

たったひとことで状況を一変させるような、魔法みたいな強い言葉は、きっとこの世にはない。それでも自分の言葉を持ちたい

 

〈叱る依存〉がとまらない

家庭や学校、仕事や人間関係など日常のあらゆる場面に、構造化された〈叱る依存〉が組み込まれていた…。できるだけ早くみんながそれを認知し、「これは叱る依存だ!」と指指すようになれば、社会からDVや虐待、パワハラや厳罰主義、バッシングや行き過ぎ校則がなくなるのではないか? ひょっとしたら著者のこの本における指摘から、社会はグッと安全で住みやすいところになるのかもしれません。人類をアップデートする可能性を感じました。
ブログに読書メモ書いてます。

叱る人が「状況の定義権」を持っている権力者であることを思い出してください。それは、その場において何が「正しい」「あるべき姿」なのかを決める権限です。その権限があるからこそ、自分は「正しいこと」を主張し、状況を「あるべき姿」にしようとする課題解決者なのだと感じるようになるのです。すると叱る人にとって、問題の責任は何度言っても同じことを繰り返して困らせる、目の前の叱られる人にあることになります。 「私は努力している。悪いのはこの人だ」 叱ることがやめられなくなっている人は、無意識のうちにこのような発想になっていることが多いのです。

目的のための自発的な我慢と、他者から強要された我慢は、まったく別の体験だからです。強要された我慢と、自分で選んだ我慢。これらはどちらも同じ「我慢」と表現されますが、人の内側で起こっていることは大きく異なります。だから、明確に区別する必要があるのです(…)「今この瞬間には本来必要のない我慢」を与えたくなったら、要注意です。もしかしたら〈叱る依存〉の罠にハマってしまっているかもしれません。

 

THINK AGAIN 発想を変える、思い込みを手放す

大好きなアダム・グラント、いつものようにうならされました。そしてこちらもいつものごとく、楠木建の解説がすばらしかったです。翻訳ものが苦手な方は、解説だけでも読むことをお勧めします。

ほとんどの人は、自分の信念、信条、理念に基づいて自分を定義することに慣れてしまった。しかし、世界がめまぐるしく発展し、知識も進化していく中で、そうしたことが自分の考えを変化させていく妨げになるようでは問題だ。自分が間違っているかもしれないと考えること自体が許しがたくなり、自説を神聖化することにもなりかねない(…)自分は誰なのか。アイデンティティを問う時、あなたの信念ではなく、価値観に基づいて自分を定義するべきだ。価値観とは、人生の中核となる原理である

心理学者のジョージ・ケリーによると、信念は「現実を捉えるためのメガネ」のようなものだ(…)とりわけ人が攻撃的になるのは、守ろうとする信念が間違っていると心の底でわかっている時だ、とケリーは指摘する。そうすると、人はメガネを変えて別の見方を試すかわりに、ものごとを曲解するようになる。

 

モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

まるっとまとめてしまいたくなるところにしつこく粘り強く入っていける人は、それだけでもう尊敬してしまいます。
とはいえこの本が呪いを解いているかどうかは…どうかな? でも、呪いであることを明らかにしていることは間違いないです。

意見に対し善し悪しをつけたり解決策を示すのでもなければ、現状に対して「仕方ない」と追認するのでも拒絶するのでもない道を選ぶということです。
主観に開き直るのでもなく、客観に逃げるのでもない。ヒートアップすることなく、第三者の立場ではあっても決して傍観するわけではない。しかも、いつでも当事者として関わる体勢は整えておきたいのです。複雑な世の中であるからこそ白黒つけられないところに留まる足腰の強さはあったほうがいいでしょう。

常識は日常からの逸脱を抑制する穏やかさであると同時に、穏当さに釘付けにする狂気でもあり、常に二重性を孕んでいることです(…)人から「それは常識として古い」と言われたら、ショックだし、その先を素直に聞くのは難しくなります。そうなると、いくら「頭を柔らかくしないと時代についていけませんよ」と忠告してもあまり効果は期待できないでしょう。なぜなら持ち前の考えを手放さないことで得られる利点がその人にはあるからです。たとえ、それが他人からは不合理に見えたとしてもです。

 

思いがけず利他

なんとなく気になってはいたけどこれまで手に取ることはなかったままだった著者の本です。NHKUAと対談しているのを見て、俄然おれの中での注目度がアップし、数えてみたら今年3冊読んでいました。なるほどおもしろいし読みやすい。

談志を主線にからませつつ語っていくところにはパンクを感じました(とはいえ、おれにはちょっと「仏教という哲学に寄り添い過ぎ」な感が強すぎるところも)。

私は、現代日本の行きすぎた「自己責任論」に最も欠如しているのは、自分が「その人であった可能性」に対する想像力だと思います。そして、それは自己の偶然性に対する認識とつながり、「自分が現在の自分ではなかった可能性」へと自己を開くことになります。

通常、利他的行為の源泉は共感にあると言われています。頑張っているからなんとか助けてあげたい。いい人なのに、うまくいっていないから応援したい。そんな気持ちが、援助や寄付といった「何かをしてあげたい」動機付けになっています。窮地に陥った人を助けるにおいては意味のあることでしょう。一方で、例えば重い障害がある人たちや、日常的に他者の援助やケアが必要となる人はどんな思いをするでしょう。恐らく、こう思うはずです。「共感されるような人間でなければ、助けてもらえないのか」と。

 

推しエコノミー「仮想一等地」が変えるエンタメの未来

おれがまったく興味を持っていないアニメ、ゲームを中心としたエンタメの地殻変動についての本で、ここまで深く唸らされるとは思ってもいませんでした。すごいなこの著者。ぜひ一度話を聞いてみたいし、おそらくはエンタメ以外に関しても恐ろしく鋭い切れ味を見せることでしょう。いや〜すごい本でした。

「萌え」という内的体験ではなく、「推し」という外的体験に、人々の趣味活動はソーシャル化している。消費ではなく表現なのである。
価値はすり減らず、所有して個別に嗜好するものではない。価値は広げて振りまくほどに、さらに価値を持つ。むしろ広げて振りまく機能のない20世紀型の商品は、価値のポテンシャルを広げる機会を失っている

ユーザーにとって趣味趣向は「消費財」ではなく「表現財」となり、いかに自分を「関与させていくか」という対象になった。だから「推し」として関与対象を表明し、かつては個人的・非政治的だったサブカルコンテンツを、社会的でときには政治的に楽しむ「祭り」型のコンテンツとして扱うようになってきた。この領域を世界的に先導しているのは日本であり、規模で日本を圧倒する米国や中国にはない先端的な事例にあふれている。

 


ここ一年で急速に鳥目が進み、ちょっと薄暗い場所で読むと目がやたらと疲れるんですよね…。

でも、来年以降もしっかりと「本な人」でい続ける気まんまんなので、みんなのおすすめの一冊もぜひ教えてください!

Happy Collaboration!