デモクラシーという満員電車。多様性という通勤快速。
デモクラシーは満員電車に似ている。本当は、便利だし快適だったはずなのに、みんながどんどんとそれに乗りこんできたら、なんだかどんどん息苦しくなって、今じゃすっかり疲弊した嫌われ者。。。
それ自体の価値は変わっていないはずなのに、状況や環境が変わって、すっかり受け取られ方が変わっちゃった。
多様性は通勤快速に似ている。本当は、もっと多くの人に価値を届けるために、利便性を考えてのものだったのに、なんだか「スピードも」「停車駅も」ってあれもこれもとやってるうちに、その存在価値もあやふや。。。
少し前にインドネシアの今を紹介する番組を観ていたら、「デモクラシーとは、多数決の名の下に多数派が少数派を支配する社会だ。少数派が自分たちの立場をわきまえて黙っていれば、われわれは彼らを痛い目には合わせない」みたいな言葉が聞こえてきました。
おれが理解していたデモクラシーと違う…。
いつの間に、民主主義は「多数決」になって、多数決イコール「多数側の総取り」になったのだろう?
デモクラシーって、多数派が少数派のことを考えながら意思決定するものだと思っていた。0か1かじゃなくて、多数側に回ったら、少数側のことを考慮するよっていう前提のもとに成り立っているのがデモクラシーだと。
おれが最初から勘違いしていたのか? それともデモクラシーの進化なのだろうか?
「行き過ぎた民主主義」って言葉が頭に浮んだ。
「行き過ぎた資本主義」って言葉は、イメージを与えてくれる言葉だとおれは思っていて、気に入っている。「どこをどうする、どうしたい」っていうのを、みんなの頭の中に思い描かせる力のある言葉だって感じがしない?
そしておれは、「格差を広げ続ける」のが、行き過ぎた資本主義だと思っている。
「行き過ぎた民主主義」、「行き過ぎたデモクラシー」って言葉は「どこをどうする、どうしたい」っていうのをみんなに考えさせる言葉だろうか?
おれには、「不寛容を助長させる」のが行き過ぎた民主主義だ。そんな民主主義なら要らない。
民主主義の必須前提条件は寛容さじゃないのか?
あっちを向いてもこっちを向いても、どこもかしこも不寛容。
不寛容さを目にすると、悲しみと怒りと恐怖と諦めがいっしょたくにやってくる。多分これっておれだけじゃないんだろうなぁ。
あれ? でもよくよく見れば、おれのポケットには不寛容がたくさん入ってら。参ったな。。。
「多様性こそが重要なのです。多様性がイノベーションを生み出し、労働力不足を補い、働きやすい環境を作り、企業イメージをアップさせ、好景気を生み出すのです。」
うん。きっとどれも本当なんだろう。でも、どれも算数みたいに必ず同じ答えが出るものじゃないし、結果との因果関係は複雑で分かりやすいものじゃない。
だから、「重要なのです」って謳い文句に飛びついた人たちの間に「重要視してきたけど変化が現れない。効果がない」って思う人が出てきているのかも?
実は、多様性よりも均一性や統制の方が短期的には効果を得やすいって感じている人が多いのかも? そしてそれはおそらく本当で、短い時間でどうにかしなきゃいけないときには、全員が同じことを同じようにするのが一番早い。言うこと聞かない奴には強制させて。
で、そうやって「先取り」的に搾り取った後が「今」で、だからこれからどうするのっていうのに対する解が多様性だったんじゃありませんでしたか?
多様性は「今すぐお得、今すぐ儲かる」の四半期経済への答えじゃない。自分たちがサステナブルな未来の1プレーヤーであり続けるための変化でしょ。
そして多様性の必須前提条件はインクルーシブであって、インクルーシブの鍵となるのは寛容さだと思う。
一個ずつ、ポケットの中の不寛容を見直してみよう。その不寛容、持ち歩く必要って本当にあるんだっけ?
「パチさんはどうして"無意識の偏見"ってものを気にするようになったんですか? そのきっかけみたいなことって、何かあったんですか?」
-- 先週、そんな質問を受ける機会がありました。
答えを考えていたら、おれの中ではマイノリティー意識と選民意識っていうのがコインの裏表みたいになっていて、さらに反権威主義と権力志向も同じく裏表になっていて、それが3回転半くらいねじれて今に至ることに改めて気づかされました。
まだ上手く言葉にできないんだけど、無意識の偏見を克服していくのにも、必要なのは「寛容さ」なんじゃないかなって感じている。
周囲に対する「寛容さ」はもちろんなんだけど、自分や自分の過去に対する寛容さがポイントになりそう。無意識の偏見から差別や攻撃を自分自身が行なっていたってことを、「そういうものだ」って一度受け入れること。そこからスタートしないと、他者の無意識の偏見に上手に対峙することができなさそう…。うーん、やっぱりまだ上手く言葉にできないな。
「君のいうことには反対だが、君がそれをいう権利は死んでも守ろうと思う」って、大昔にそんな言葉を残した人がいたらしい。
おれにとっては「寛容」ってそういうことで、「違いを違いのまま受け入れること」だと思っている。反対意見を飲み込む必要はないし、異は唱えられてこそ異だ。
ポケットの中の不寛容をまずは寛容的に捉えてみようか。
寛容が先に来ないと、どれもきちんと機能しない。
消化不良な文章だけど、「民主主義と多様性と偏見」の3つの連なりについて、今の段階で一度頭を整理したくなって書きました。