月は毎年地球から3センチずつ離れている
その日泊まる宿には本格的な天文台が併設されているらしく、チェックインまでまだしばらく時間が空いていた僕らは、散歩がてらにさっきまで降っていた雨でまだびしょびしょの遊歩道を歩いていった。
天文台には、作業着姿のおじさんが一人いるだけだった。
親切そうな、でもなんとなくどこか神経質そうな雰囲気もあって、ちょっとイッセー尾形に似ている気がした。
おじさんに言われるがままにスリッパに履き替えつつ、僕らはぐるりと円形の部屋を見渡した。
壁には、たくさんの天体写真。
そのうちの半分くらいには、撮影者のところに同じ名前が書かれていた。
なんとなく、これはきっとイッセーさんが撮った写真なんだろうという気がした。
僕らは、8月に見える星座にはどんなものがあるかとか、なぜ夏の方が天の川がよく見えるのかとか、そんなたいして興味も持てないイッセーさんの話に、適当に相づちを打っていた。
どこかで聞いたことあるよなないよな。
ふうんそう、とかなんとか小声で言いながら、もういちどぐるりと部屋を見渡した。
天文写真の間に小さな工作物がいろいろと置かれていた。
1.5リットルのペットボトルを切りひもを通したのやら、段ボールに色紙を貼ったのやら。
きっとどれも、宇宙の不思議や星の不思議を説明するためのものなんだろう。
流れ星のできる理由。冬の方が星がきれいに見える理由。秋の星座。
一つだけ、太陽を中心に惑星がぐるぐるとその周りを公転するゼンマイ仕掛けの機械が置かれていた。他のとは違う感じ。
ただ機械と言っても、何年がかりかで揃えたディアゴスティーニの付録みたいな、どこかそんな感じがした。
多分、僕らの目つきが「おじさん、あれを動かしてみてよ」と言っていたのだろう。
おじさんが水星と金星と地球を公転させた。
そして地球の周りでは、月が他の星とは比べ物にならないスピードで地球の周りを自転していた。
ギギギギギギギギギ…ギギ……ギギギギギギギギギ…ギギギギ
ディアゴスティーニが不思議な音を立て始めた。
僕らは黙って回転する月を見ていた。
「あれ、どうした…ほらしばらく…」おじさんがなにかごにょごにょと言っていた。
「そうだ。月が毎年、地球から3センチずつ離れて行ってるのはご存知ですか?」
ちょっとばつが悪そうに、止まった機械の下を覗き込むような込まないようなそぶりでおじさんが言った。
「月は毎年3センチずつ、地球から遠ざかっているんですよ。」
月は毎年3センチ、その動く範囲を広げている。
「またその話か。もうそれについては何度も会話したじゃないか」
「ぐるぐるぐるぐる同じところを。まったく進歩してないな」
たしかに、いつもと同じ話に思えるかもしれない。
けれど、前よりももっと深い部分を意識しながら僕らは会話できる。
前よりももっと、より意識を拡げて僕らは対話できる。
ぐるぐる行ったり来たり。ぐるぐるぐるぐる堂々巡り。
でも月は毎年3センチ、その動く範囲を広げる。
僕らは、いや僕は、おじさんにいろいろな質問をしていろいろと教えてもらった。
月は楕円型に公転していてるので、地球と月の距離は毎日変わっていること ただ、その楕円が毎年わずかに外側に広がってきていること 月も地球や他の惑星と同じように自転していること 地球から見えている月はいつも同じ側で、決して裏側は見えないこと
「月の裏側は見えない? でも、さっき自転しているって言ってましたよね?」
「そう、自転はしているんです。ただ公転周期と自転周期が同じタイミングだから、地球に向いてるのは、いつも同じ側なんです」
「じゃあ、僕らは月の一面しか知らない」
「…ただ、衛星写真なんかで月の裏側も調査されてますから。なんというか、クレーターなんかが多くて、あまり目につくようなものはないようですけどね」
月は毎年3センチずつその範囲を拡げている。同じ側を見せながら。