Collaboration Energizer | #混ぜなきゃ危険 | 八木橋パチ

コラボレーション・エナジャイザーとは、コラボレーションの場を作り、場のエネルギーを高め、何かが生みだされることを支援する人

先入観や独善性を強化しないために(『外国ルーツの子ども家庭支援ハンドブック』読書メモ)

外国ルーツの子どもを支援する団体でボランティアをしている。

ちゃんと思い出せないけど、まだ10年は経っていないと思う。8年くらいだろうか? その前は紛争や被災地区の支援ボランティアをしていて、子どもにフォーカスした団体ではなかった。

 

おれの気持ち的には本当は子どもじゃなくてもいい。ただ「家族支援」となると、そこまでの力量を持ち合わせていないおれにはなかなかハードルが高いのだ。

だから、家族の支援は組織がしっかりやってくれて、その一環として子どもの勉強をサポートする役割を担える「さぽうと21」でボランティアをしている。

週に一度、ほぼオンラインで2時間弱程度の勉強のお手伝い。ときどき悩みを聞いたり遊び相手になったりしながら。

  

 

それからもう一つ。こちらも全体は組織がしっかりと支援してくれる「KATARIBA Rootsプロジェクト」でもゆるく。

おれはときどき開催されるミートアップや発表会的なイベントで、対話ボランティア的なことをしている。

 

このどちらも、専門的な知識やスキルは求められることはない。

支援対象となる人たちへのリスペクトと、その人たちの役に立ちたいという気持ちと、それから少しの想像力と向上心があればできるもの。そしてリターンも(少なくともおれの場合は)たっぷりもらえる。

興味がある人は是非以下をご覧いただき、やってみたいと思ったら連絡してほしい。

roots.katariba.or.jp

 

ボランティア活動を続ける上で、気をつけていることが一つある。それは、ときどきだけれど意識して「しっかり情報を仕入れる」こと。

ボランティア活動をしていると、どうしても自分が関わっている現場で見聞きする話や出来事が「すべて」のように感じられる。身の回りにリアリティを持った息づかいのある話があると、人はそれに引きづられるものだろう。

そしてもちろん、そういう身近なところで得る経験や情報は貴重だ。

 

ただ貴重ではあるものの、情報源がそこだけになってしまうと、思い込みが強くなってしまいがちだ。

そして思い込みの強さは、先入観や独善的な判断を強化してしまう。

だから、意識してしっかりとした情報を仕入れる。

 

『多文化理解からはじめる外国ルーツの子ども家庭支援ハンドブック』(南野奈津子 著)は、アカデミアと実践の双方で活躍されている著者による本で、多面的な研究やデータの紹介はとても役立つものだった。

もし、あなたが外国ルーツの子ども支援に興味を持っているなら、あるいは実践しているけど情報に偏りがあると感じているのなら、ぜひオススメしたい一冊。

 

www.keio-up.co.jp

 

以下、書籍よりいくつか『8 母国文化と日本文化の間で生きる子どもたち』を中心に引用を。そしてコメントも。

なお、データ・数字系の記載はここではピックアップしていないので、そちらは書籍を見てもらうのがよいかと。また、個人的に「これは特に多くの人に知ってもらいたいな」と思ったことが書かれていたのが以下の章。

3 外国ルーツの子ども家庭と格差
6 障害と文化的スティグマ
10 外国ルーツの子どもと発達障害のアセスメント
12 外国ルーツの少年と非行
13 外国ルーツの子どもといじめ
16 子育て・しつけのスタイル
17 保護者のニーズを理解する

 

ムスリムは、一日に5回礼拝をするため、保護者が「学校でも子どもが礼拝をすることを許可してほしい」と希望することがあります。そのような場合、学校の空き教室を使用できるようにしているケースが多くなっています。また、イスラム教では、男性は金曜日にモスクで集団礼拝(金曜礼拝ともいう)を行うのですが、昼休みに車で学校から男の子を連れて行き、終了後また学校に連れて帰る、という例もあります。ただ、周囲の子どもと違うことをすることに抵抗感をもつ子どもや、礼拝に必ずしも熱心ではない子どももいるため、周囲の大人たちには、他の子どもの前で礼拝について話をしない、などの配慮が求められるようです。

(『8 母国文化と日本文化の間で生きる子どもたち』より

学校を抜けて金曜礼拝に行く話は子どもから直接聞いたことがあったのですが、そのことについてあまり話をしたがらない雰囲気を感じ「なんか…今はやめといた方がよさげかな」と思ったことがありました。

なるほどこういう背景だったのかもしれません(まったく関係なかったかもしれないけど)。

ともあれ、子どもが話をしたくなさそうな雰囲気を出しているときは、一度スッと引き、後から二人だけのときに改めて聞いてみる…なんてことは意識しようと思います。

 

宗教であれ、ジェンダーであれ、あるいはそれ以外のものであれ、子どもは親の母国文化を重視する態度に対して、フレディのように反発したり、悩んだりすることも多いようです。宗教により他の子どもと同じ給食を食べることができない子どもは、他の子どもから「なぜあの子は別のものを食べているのか」という視線を感じたり、他の子どもができていることを自分はできないことに対してストレスを感じたりもします。また、女性であるゆえに、日本では他の女の子ならやってもいいこと、厳しく注意されないことを自分の親からは厳しく禁じられることに対してストレスを感じ、反発することもあります。

(『8 母国文化と日本文化の間で生きる子どもたち』より

母国文化を重視「し過ぎる」親に対するフラストレーションが強い学生が多い気がします。そしてさらに、そんな自分(親を認めリスペクトできない自分)を攻めてしまう学生もいるかな…。

なお、<フレディのように反発したり、悩んだり>というのは、クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーのこと。

難民としてイギリスに渡り、ゲイであることで父親との確執を抱えていたことなど、2018年の大ヒット映画「ボヘミアン・ラプソディ』を観た方なら覚えているのでは?

「誰でも文化の影響を受けているものだ」ととらえ、話し合いながらできる範囲で個々のニーズに応えていくことが求められるように思います。
また、母国文化や宗教に基づく生活様式を日本で行うことに、違和感や拒否感を抱く子どももいます。子どもの生活に関することである以上、子どもの意見や思いをきちんと聞くことが大事です。女の子と男の子ではそれぞれ違った感覚を抱えているかもしれません。保護者に自分の気持ちを言いづらい子どももいることでしょう。中立的な態度で、子どもの気持ちを受け止めるような存在が子どもの近くにいることが必要ではないでしょうか。

(『8 母国文化と日本文化の間で生きる子どもたち』より

子どもに関することである以上、子どもの意見や思いをきちんと聞くことが大事——これはとても大事だけど、つい「保護者がそう言っているのなら」と思ってしまいがちかなと思います。

個人的には「中立的」よりさらに「本人寄り」でいたいかなと思います。

この辺りの話は、障害者にかんしても同じかと思います。親兄弟に自分の気持ちを言いづらい障害者もいることでしょう。親兄弟の「代弁」に意識が向いてしまいがちですが、当事者の意見や思いをきちんと聞くことが大事。

 

同じ経験や生活背景をもつ同世代との出会いは、子どもたちの心の健康に大きな意味を持ちます。子どもたちは「日本人でもないし外国人でもないし、自分は一体何者なんだ」と思っていても、それをどう解決してよいのかわからず、胸の内にすっきりしないものを抱えたままで生活していることも少なくありません。したがって、自分から「同じような生活歴の人と会いたい」と先生や周囲の大人に訴えてくることはないかもしれません。

しかし、本人からの訴えがないからと言ってニーズがないわけではありません。特に進路決定などの人生の節目では、ロールモデルの存在はとても大きな意味を持ちます。外国ルーツの子どもたちがイベントで出会う機会を設ける、あるいは、個別に引き合わせる、でもいいでしょう。状況に応じて、できる形で仲間と出会う場の設定をしてみてはどうでしょうか。

(『18 思春期の子どもたちの未来を支える』より)

 

#meet5000のページには、先輩との出会いに関する外国ルーツの高校生たちの声なども記載されています。ぜひ、こちらも見てみてください。

 

2025年読書棚卸し(ちょっと多め)

「今年は読んだ気がする」と思っていたけど、数えてみたらやっぱりそう。
137冊。ここのところなかった冊数。…とは言え、良い出会いが多かったか? と考えると、どうだろう。
まあたくさん読めば、心に残る本も残らない本もそれぞれ増えるって話か。

というわけで、今年読んだ本で人にも勧めたい(勧めてる)本の中から15冊を。
なお、「おれが今年読んだ本」であり、今年出版された本ではありません。

 

『ケアと編集』白石 正明 著

www.iwanami.co.jp

なんか、救われてしまった。おれが最高にケアされた一冊だった。今年のベスト。

治癒を目的とした途端、対話はそのための手段に成り下がる。患者もまた、治療者の対話技術がそこで像を結ぶ一枚のスクリーンに成り下がる。対話をするというのはなにより、対話という構造の渦中に自分や相手が巻き込まれてしまう体験であるはずで、だとすれば「対話によって何かを為す」という能動的なスタンスをとった時点でもう、それは対話ではなくなる。
「こころ」とか「精神」といったものは、こうした手段化・対象化に敏感に抗うものらしい。むしろ先の見えない道を共にする、言い換えれば、ある程度のリスクを共有することも厭わないというスタンスなしには、お互いは通じ合えないということなのだ。

 

『野生のしっそう』猪瀬 浩平 著

mishimasha.com

この本を手に取った理由は、「福祉農園」を営む父と「きょうだい」を持つ人類学者が書いたミシマ社の本だから。

自分の差別性をしっかり見つめさせられた。闘わずに逃げていることも突きつけてもらえた

周りの目を気にして、じっとしていられない知的障害の子どもを連れて、公共交通機関で出かけるのを躊躇する人がいるーー、口出しされる以前に、行動は制限される。福祉サービスを受給するためのペーパーワークに追われる。いつしか、周りから批判を受けないように自分の欲望を制御するようになる。

 

『人と人のあいだを生きる』播磨 靖夫 著

www.hanmoto.com

奈良・たんぽぽの家のファウンダーであり元理事長の遺作。
それにしても1980年代に書かれていた文章が今の時代にそのままドンズバだ。変わっていないのか、むしろひどくなっているのか。

現実の世界は、合理主義=効率至上主義が強く、芸術文化は「生産性がない」と軽視されている。だが、モノをつくることだけが「生産性」ではない。人びとのあいだに「ありがとう」「うれしい」を生みだすことも「生産性」ではないか。私流にいえば、「障害者アートには人間性を回復させる力がある」。これこそ立派な「生産性」ではないか

 

幻肢痛日記:無くなった右足と不確かさを生きる』青木 彬 著

www.kawade.co.jp

現実をどう受け止めるかは自由であり主導権は常に自分にある——。そんな「当たり前だけどそんなに簡単なことでもない」という事実を、著者はまるっと受け止めて、それをグイッと力づよく受け入れる。…おれへのエールのような一冊だった。

負けず嫌いというか、目の前の出来事に自分が関わっていたいと思ってしまう。あるインタビューで「自分の体験は100パーセント自分で味わいたい」と話したのだけど、それは裏を返すと自分の人生への支配欲が強いということだったのかもしれない。そういうでしゃばりな自分を嫌だなと感じる瞬間が何度もあった。
切断や幻肢痛という経験はそういう自分の中に、思い通りにならないことが植え付けられる出来事でもあった。だから切断後は自分の支配欲を緩めることを考えていたし、私生活や仕事におけるコミュニケーションでも意識することが多くなった。

 

『移民の子どもの隣に座る 大阪・ミナミの「教室」から』玉置 太郎 著

publications.asahi.com

おれなんかよりももっとずっと濃く「外国ルーツ」の子どもの勉強サポートのボランティアをやってきた著者が、しっかり深掘りして書いた本。最近のおれは子どもたちの「勉強」にばかり目をやってしまい、仲間になることをおろそかにしてしまってはいないかと反省。

「なんでそんなに褒めるんですか」とイノウエさんに尋ねてみて、その答えに目が覚めた。
「この子らは日本の社会で、わからないことだらけの中で生きてきて、自信を失ってるんです。だからなかなか『わからない』と人に言えない。ぼくとしては子どもが答えを間違った問題こそが大事で、そこから弱点を解決するための教材を作れる。だから、子どもには、わからないところを自分で見つけて、ぼくに伝えてほしい。子どもが心を開いて『ここがわかりません』と言える相手になることが、受験勉強のスタートなんです」

 

『遺骨と祈り』安田 菜津紀 著

d4p.world

出張先の駅前で、どこかへと足早に向かっている著者をお見かけしたことがある。声をかけたかったのだけれど、単に「有名な人に声をかけただけ」と受け取られそうな気がしてやめた。そしてこの本を手にした。内容もすばらしいが「真っ当な文章力」の強さを感じた。

パレスチナ人を徹底的に差別し、土地と生活をむしりとっていくイスラエル軍の暴挙は、満州で日本軍が繰り返してきたこととあまりに似かよっているのではないか。喜び勇んで併合既成事実化の「駒」となる入植者たちや、彼らに武器さえ供給するイスラエル政府の振る舞いは、在郷軍人武装「移民」を送り、抵抗する現地民を「匪賊」扱いした日帝の姿そのものではないか。

 

『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ――性と身体をめぐるクィアな対話』森山至貴×能町みね子 著

webzine.asahipress.com

自分がいかに「クィア」を分かっていないかが理解できました(そして今も分かっているとはとても思えないし、「分かっている」という状態ってあり得るのだろうか? なんて気も)。
そしてどこか「クィアって要するに本物のパンクちゃうん?」って気持ちも。

「理解する」「受け入れる」は、そっちの都合過ぎるんですよね。「そっちの心持ちの話なんですか、これ?」って思ってしまう。向こうが心情的に納得するとか、ウェルカムだって状態になるとかの話じゃない、「そっちの気分がいいことはどうでもよくてさ」みたいに喧嘩を売りたい気分もある

 

『強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の 弱さ考』井上 慎平 著

www.diamond.co.jp

自分があちこちで「こう思うんだ」と語っていたことが書かれていて「あちゃー」と思った。なぜなら、発刊まで磨き上げた著者の言葉の方が遥かに洗練されていたから。

つまるところ、僕は知的能力や生産性で人の価値を測っていたのだ。うつの自分を見下していたのは、過去の自分の「上から目線」だった。だから「悲しい」ではなく「みじめ」だと感じたのだ。
このように、「役に立つかどうか」で人を序列付けし、差別する思想をなんというか。優生思想だ。役に立つ人間しかこの世界に入らないと主張してはばからない、おぞましい考え。

 

『ケアしケアされ、生きていく』竹端 寛 著

www.chikumashobo.co.jp

「根幹に能力主義を抱える自分」をどう受け入れ、そこから脱却するのか…。この問題に自分ごととして取り組まれている著者。おれの中の「とはいえ、それはもうしょうがなくはないか?」という気持ちを揺るがしてくれた。

そもそもこの「平等」とは、子どもや老人、障害者などへのケアなどを女性(妻・母・祖母)という「差異」に押しつけることで成立するという意味で、成人男性にとっての「平等」でした。それは、娘をケアするために、出張などを断り続ける中で、痛いほど感じました。
また、小さな子どもがいながらも、残業や出張、飲み会に行く「自由」とは、扶養家族という「足手まとい」をケアする必然性を女性に託したり押しつけたりすることができるからです

 

『戦略デザイナーが伝えたい、システムのデザイン』山田 和雅 著

book.cm-marketing.jp

この本は、ちょっと自分に近すぎて、一般の読者としての読み方ができない一冊だった。そしてこの年末年始にもう一度読み直してから、自分なりの書評を書こうと思っている。

いずれにしろ言えるのは、異常な本だということ。

まず、「読者が『人間性中心システムデザイン』をできるようになるための本なのだけれど、その詳細な説明が半端ないこと。
そしてすごく丁寧に説明されているにもかかわらず、自分が『人間性中心システムデザイン』をできるようになると思えないこと——。と書いてしまうと、営業妨害かな? ww

いやでもね、どうしてそう思うかというと、山田さんがそれを実践するのを間近で1年以上見てきたから。ある種のアートだと思うのだけれど、どれほど丁寧に読んだとて、あんなに難しいことを本一冊でできるようになるわけもなく。

とはいえ、読まないと、本当の意味でその凄みはわからないのだ。

おれにとっては「あーなるほど!! あのときのあれはそういう意味だったのか!! チョー納得!!」に溢れた一冊だった。山田さんと一緒にワークした人は、きっとみんなそうだろうと思う。

そしてまだ山田さんと一緒にワークしたことがない人にとっては、きっと「おお、これはあそこに書かれていたアレか!?」とエキサイトできること間違いないだろう。

デザイン思考から「システムのデザイン」へ BIOTOPE山田氏が説く、リーダーのための「知の道具」bizzine.jp

 

デンマークが成功するとき(When Denmark Succeeds)』グロンデル・エスベン 著

synean.com

デンマークとエスベンの柔らかさが詰まった一冊。残念ながら、今はまだ一般流通していないけれど、間違いなく必要十分なクオリティがあるので、いずれ出版されるのではないかと。

通常なら、到着のアナウンスは定型文で、礼儀正しく、落ち着いた口調で読まれる。
けれどもその日の放送は違った。
スピーカーから流れてきた声には、疲労と同時に、どこか人間味のある温かさが滲んでいました。
「……まあ、今日は思い通りにはいきませんでしたね」
そう、彼女は言葉を崩して語り始めたのです。
決まりきった台本を読み上げるのではなく、乗客と同じ時間を共に過ごしたひとりの人間として話しかける。
その正直さに、誰もが少し救われたのだ。
そして結局、私たちは無事に最終目的地へと到着した。
それで十分だった。

 

『インフォーマル・パブリック・ライフ - 人が惹かれる街のルール』飯田 美樹 著

インフォーマル・パブリック・ライフ――人が惹かれる街のルール[ミラツク]eijipress.co.jp

「人が惹かれる街のルール」って科学的なものではなくて。無理にそれを科学的に伝えようすればただただ怪しく嘘くさいものになってしまう。だから、こういう本が必要だし、必然的にこういう本になるのだと思う。

オープンカフェが重要なのは、そこからハイライトを眺めることができ、ハイライトを囲む街との一体感を感じていられるからである。どんなにハイライトから近い場所でも、日本の喫茶店のように閉ざされた店内しかない場合、そこにいながら街との一体感を感じることは難しい。

 

『いなくなくならなくならないで』向坂 くじら 著

www.kawade.co.jp

「読ませる力」の強い小説だった。詩も読んでみたい。
「さきさか」さんとお読みするんですね。ずっと「むかいざか」さんだとばかり思っていました。

だれかと似ていたいし、それでいて異なってもいたい。
そしてその凹凸がぴったりとあうただひとりを見つけて、さらにはその人にも、あなたこそただひとりと言ってもらいたい。

 

『そういえば最近』寺地 はるな 著

note.com

「連続ドラマ的な書き方をしているから?」「実験要素強いから?」など、違和感を抱きながら読み進めていたものの、「カチッ」とハマった後の疾走感がすごくて止まらなくなりました。毎回なにか新しいチャレンジをしてしっかりクリアしていく寺地さんって本当にすごい。

作家というのは夜の女と同様に、人生の物語を要求され続けるものです。作家のインタビューには、ぜったいにこういう質問があるんだそうです。どうして作家になろうと思ったんですか? どうして小説を書こうと思ったんですか? 人間は物語を求める生き物だから、しかたありませんよね。

 

『街とその不確かな壁』村上 春樹 著

www.shinchosha.co.jp

自分の善性を信じること。これまでの足跡を信じること。理屈ではなく、それを信じなくて何を信じるのか。自ら拠り所をなくして、人は生き続けることができるのか。
応援してもらった気がする。

「ひとつには、こうしてスカートをはいておりますと、ああ、なんだか自分が美しい詩の数行になったような気がするからです。」

 

来年もすてきな本に出会えますように。

 

pachi.hatenablog.com

3年半ぶりに会ってきた

2018年から2022年くらいまで、5年ほど「旧中川」近くに暮らしていました。

そしていわゆる「コロナ禍」がスタートした2020年の春からおよそ丸2年のうち、多分半分以上の日を旧中川沿いのウォーキングに費やしていました。

その後、当時住んでいたUR物件の騒音が気になるようになって、引っ越しをしたのがおよそ3年半前。…正直に言って、旧中川への恋しさを募らせた3年間でした。

そして先日、3年強ぶりに旧中川沿いをゆっくりと散歩してきました。

旧中川の4月。今年は桜が長いね

 

引っ越してわりとすぐに、自分が理解しているよりもずっと「旧中川ウォーキング」が自分の中で大きな意味を持っていたことに気がつきました。

だからこそ、正直、再訪するのがずっと怖かったんです。なぜなら、ガッカリするのも愛しさが溢れ出すのも嫌だったから。

2年間毎日のように費やしていた時間を「つまらないものだった」って感じることも怖かったし、もう一度手に入れたいという気持ちに捕らわれてしまいそうなのも怖かった。。。

引っ越してしばらくして、こんなブログを書きました。

pachi.hatenablog.com

 

「いぶきやゆらぎってかっこいい言葉で書いているけど、シンプルに『生命力』だよ」って今見ると思います。

鳥も魚も植物も虫も人も、そして猫も——。3年強ぶりの旧中川ウォーキングは、みんながみんな、「生きている」姿をまざまざと見せつけてくれました。

旧中川沿いの命たち。みゃくみゃく。

 

旧中川のM字カーブを「耳」に見立てたとき、左耳の尖ったあたりにある橋の下に、クマちゃん、シロ、トラちゃん、という3匹の猫が暮らしていました。

それぞれまったく違う個性を持っていた3匹だったけど、共通していたのは地域猫としてかわいがられていたこと。通行人も多く、イタズラしようとする人も少なからずいたようだったけど、「彼らを守りたい」と思っている人たちもそれに負けないくらいいました。

 

おれとパートナーは、彼らと猫じゃらしで遊んだりお尻をトントンしたり、撫でさせてもらったり、ときどきはCIAOちゅ~るとかあげたりしながら、ん〜平均すると1日2〜30分くらい一緒に過ごさせてもらいました。

クマちゃんはとても人懐っこくて、すぐに慣れると遠くからで姿を目にすれば自分から寄ってきてくれるようなことも多く。

シロは体も態度もデカく、いかにも「ボス猫」って感じで威張っていながらも他の2匹の面倒を見るようなところあったり(なかったり)。

そしてトラちゃんは一番身体が小さくて臆病で、2年間通っても決して心を許してもらえることはなく、50センチ以内に来てもらえることもありませんでした。ただ1度を除いて。

 

橋には、猫たちの姿はありませんでした。

ただ、猫たちが今もいるかのような、張り紙や隠れ家はあって。だから、「もしかしたら今姿を見せてくれないだけで、どこかにはいるのかも?」と思い、しばらく待つことにしました。

昔、よくそれでよく姿を見せてくれたように、鍵をガチャガチャ言わせたり、「クマちゃ〜ん。トラちゃ〜ん」と呼び続けてみたり。

5分くらいして、諦めて立ち去ろうとしたところで、ニャーと小さな声が聞こえて、どこからかトラちゃんがその姿を見せてくれました。「あ、トラちゃん! トラちゃ〜ん」と声をかけ続けると、そのたび小さなニャを返してくれました。

 

しばらくすると隠れ家の奥に入ってしまい、もう出てきてくれなさそうだったので、諦めて立ち去ることにしました。

「よかったね。トラちゃんはいたね。」
「クマちゃんとシロは…どうしたんだろうね。」

そんな話をしながら橋から離れていくと、おれたちをジロジロ見ながら橋へと近づいていくおじさんがいました。

そのおじさんは、おれたちが立ち去ってしばらくすると、「トラ。トラ!」と呼び出し橋のたもとの傾斜に座ると、なんと、トラちゃんがその膝の上に!

…こ…これは、昔、通っていたときに唯一「自転車猫おじさん」と呼ばれる人だけができた技。びっくりしながら、おじさんに声をかけ、昔毎日のように通っていたこと、3年半ぶりに会いにきたことことを伝えました。

 

「自転車のおじさんいたでしょう? あの方ね、倒れちゃって、その後あちこちの病院をたらい回しにされた後、亡くなっちゃったんだよ。だからね、その後わたしが同じように餌をやりに来ているの。

シロか。あの猫はねえ、道路で轢かれて大怪我しちゃって。でも、病院に連れていってくれた人がいてね。その人がそのまま貰っていったよ。

クマ…クマちゃん…ああ。私がここに来るようになった頃には、もういなくなっていたなぁ。

今残っているのは、トラだけ。トラもずっと野良猫で10歳以上でしょう。多分、そう長くないと思うんだ。最後まで生きていってほしいねえ。」

 

旧中川のトラちゃん。元気でいてくれてありがとう。

 

おれたちは1度だけトラちゃんに触ったことがあります。撫でたことがあります。

引っ越しの前日、「最後のウォーキングだね。猫たちにお別れの挨拶だね」と2人で家を出て、橋の下への向かいました。そうしたら、前日はいつものように50センチ以上近づかせてくれなかったトラちゃんが、自分からおれたち2人のところにやってきて、足元にニャーと頭を擦り付けてくれたんです。

その日だけ。最後の最後の日に。

 

今、もう一度、旧中川近くに引っ越して暮らそうか考えています。

トラちゃんがいるうちに。

2024年(結局少なめ)読書棚卸し

今年はよく本を読んだ年でした。

数えてみたら112冊。去年が例年より少なかったので、比較すると1.6倍くらいになるのかな(74冊でした)。

ただ…。残念ながら、「すごくおもしろかった」と言える本は例年より少なかった気が。
でもこれは、あたしの本の選び方が下手くそだったってことだと思う。
「読んでおくべきかなぁ」みたいな本をちょっと手にし過ぎました。もっと自分の中から浮かび上がる声を信じないと。ね。

ということで、満足した本を並べておきます。例年の如く、出版時期は関係なく、「あたしが2024年に読んですっかり気に入った本」です。

 

 

『実験の民主主義-トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』

宇野 重規 著 + 若林 恵 聞き手

民主主義の生き字引である宇野さんと、あたしがもっとも憧れる編集者の若林さんによる共著(若林さんのクレジットは「聞き手」となっているけれど)。それにしても宇野さんも若林さんも相手の土俵にしっかり上がりきれる人同士ですごいなぁ。この二人だったら「どの店のチャーハンが一番か」みたいな話でも相当おもしろいものになるのではなかろうか。

www.chuko.co.jp

右派の人たちが「人権」を蛇蝎のごとく嫌って、左派を「人権教」と呼んで反発するのも、人間の本性的には自然な反応です。自分の身内や仲間の権利を大切にしたいと思うのは人間の本性ですが、その権利を自分の仲間ではない人間や、よその国の名も知らない人間に対しても等しく拡張するとなると、直感的に抵抗を感じます。
とはいっても、その直感にだけ従っていると、不条理な差別や抑圧が起きたり、戦争が起きたりして大変な思いをすることになります。そこで、動物的な本能には反するけれど、人権は最低限認めたほうがよさそうだという合意をどうにか作り、その合意を積み重ねることで近代社会は発展してきました。とはいえ、どうしても腹にストンと落ちきらない部分はある。であればこそ、何かのはずみにそれが暴発しています。

 

『コモンの「自治」論』

斎藤幸平 + 松本拓也 編

松本卓也さんを初めて知った一冊。…とは言え、この本以外で書かれたものを読んだことはまだなく、早くじっくりと読んでみたいので、精神医学と哲学以外の本を出してほしいな。あるいは、トークイベントとかあれば行きたいのだけれど…そうか。この方も京都なのか。。。

www.shueisha.co.jp

自治〉とは、「一見、便利なもの」に潜む抑圧の構造を認識し、かといってそれを全否定するのではなく、「ちょっとした工夫(+α)」で、既存の仕組みを組み換え、世界の見え方を変え、このクソみたいな世の中をちょっとでもましにしていくこと

 

『責任の生成ー中動態と当事者研究

國分 功一郎 & 熊谷 晋一郎 著

こくぶんさんとくまがやさん。苗字の読みが微妙に難しいお二人。
ご自身たちも語っているように、組み合わさることでそれぞれの話の理解が深まるのですが、どうやらそれは読者だけではなく、ご本人たちも同様のようです。「中動態と当事者研究」のコラボはぜひこの後も続けてほしい!

www.shin-yo-sha.co.jp

重要な点は、周囲から見てわかりづらい障害は、自分から見てもわかりづらい、ということです。例えば、小さいころからなぜか周りの人と同じように振る舞えない、あるいは同じように感じられないというかたちで、名状しがたい際を経験してきた自覚はあるけれども、いったいなぜそうなってしまうのか、自分の性格あるいは人格に問題があるのではないか、あるいは努力不足のせいなのではないかと悩み、自分を責めてきた方が数多くいらっしゃいます。そのような状況にあって、社会の側に変わってくれ、という要求をするのは難しいですね。うまくいかないのは自分のせいなのかもしれない、という可能性が否定しきれない状況において、社会に配慮を要求するのは並大抵のことではありません。

 

『従順さのどこがいけないのか』

将基面 貴巳 著

「しょうぎめん」さんとお読みするのだそうです。そしてニュージーランドダニーデンにある大学で教授をやられているそう。先日、オンラインでのトークセッションを聞いたのですが、とても良かったです。こうした方が日本にベースを置いて活動されていないことが、少し悲しくなりました。「大事なものを守るために」みたいなところがあったのかなぁ、なんて想像が働いて。

www.chikumashobo.co.jp

たとえば、あなたが誰かのことを「偉いなあ」と思っていて、その「偉い人」の言うことにあなたが従うとき、あなたとその「偉い人」との間には「政治」という現象が出現していることになります。
権威が存在するところでは、権威に対して服従が求められます。あなた自身がほかの人々にとって「権威」として振る舞う以外、あなたは、誰かの権威に服従することが求められているはずです。その権威とは、家庭では親であり、学校では教師であり、会社では上司です。

 

『生き延びるために芸術は必要か』

森村 泰昌 著

あたしはこれまで何度殺されたのだろう。そして何度死なないために魂を売ってきたのだろう。…そしてまだ、売ることのできる魂は、この身体の中に残っている?
——読んでいる間に、何度かそんな言葉が頭に浮かんできました。著者は言います。
<生き延びるために芸術が必要なのではない。生き延びることができないもののために芸術は必要なのだ>と。

www.kobunsha.com

有効に活用して世の中に役立たせる。もちろんわるいことではない。むしろ称賛されてよい発想であり実践である。しかし有効に活用できないようなら廃棄する、役に立たなければ意味がないというふくみがかいまみえる気がしないでもない。
役に立つことと生き延びることは、まったく別問題である。役に立つから生き延びるのではない。役に立つかどうかとは無関係に、生き延びたい、生き延びていてほしいとねがう気持ちが、なにものかを生き延びさせるのである。

 

『夜明けのすべて』

瀬尾 まいこ 著

エンタメに弱いあたしは、「これ、映画化したいって脚本家やプロデューサー多いだろうな」と読み終えて思ったのでした。
久々に読書中に大爆笑した作品でした。何年ぶりだろう? そして心から大笑いできたのは、この本の中に、違和感や後ろめたさ、抵抗感や反発心という、あたしの中に常に潜んでいる芽が顔を出さなかったからだろう。
自分にとって「障がいは遠い」と思う人に読んでほしいな。

www.suirinsha.co.jp

働かないと生きていけないし、仕事がなければ毎日することもない。だから会社に勤めている。けれども、仕事のもたらすものはそれだけではない。自分のできることをほんの少しでも、何かの役に立ててみたい。自分の中にある考えを、何らかの形で表に出してみたい。そういう思いを、仕事は満たしてくれる。

 

『正欲』

浅井 リョウ 著

こちらの作品は映画化されたことは知っていたものの、そちらには食指が動かず(観たくないというよりは「そこまで興味を広げたら自分のリズムが破綻してしまいそうだから」という理由で)。で、本ですが、浅井氏は違和感をしっかり見つめるのが得意な人なんだなぁと思いました。実は、氏のことはほぼ何も知りません。…なんというか「知ること」への興味を沸かさせない著者なんですよね、彼はあたしにとって。そういう作家の作品を気が向いたときにふと読めるのって、幸せなことだなぁって思ったり(って、なんのことやらな感想ですね)。

www.shinchosha.co.jp

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

 

『ほたるいしマジカルランド』

寺地 はるな 著

一番好きな作家さんである寺地さんの代表作の一つだと思うのですが、なぜかずっと、この本だけは手に取らずにいました。なんでだろ?
そして期待に違わない結果。「あたしももう少し強くなれる」って、自分を信じる力がちょっとアップした気がします。

www.poplar.co.jp

すべての生きる者は働く。働かなければならない。ただ、「働く」とは金銭を稼ぐことだけではない。照代のように主として家事をおこなう者も「働く」者だし、生きていることが、生を全うすることこそが、山田はそれこそが、すべての人に課せられたもっとも重要な仕事だと思っている。
生きてくれ。すべての人にたいして、そう願う。

 

『最期を選ぶ 命と向き合う人々、その家族の記録』

山本 将寛 著

あたしは薄めの「ドキュメント番組マニア」なんですが、フジテレビの『最期を選ぶ~安楽死のない国で私たちは~』は、「知っていること」をさらに深めるのではなく、「知らなかったこと」を目の前に提示してくれたドキュメント番組の中で、今年一番心に残るものだった気がします。そしてそのディレクターが書いた本が、ここまで心に迫ってくるとは…正直予想していませんでした。多くのドキュメント番組が元になった本って、番組の追想以上にはならないものが多いので…。ドキュメンタリー本として非の打ち所がないものだと思います。願わくば、氏の次の作品を見逃してしまうことがありませんように。

magazineworld.jp

数量的にもう少し調べてみると、スイスではここ数年、死亡者総数の約2パーセントが自殺幇助による死亡者であることがわかりました。つまり、死亡者の50人に1人が自殺幇助を受けた、ということになります(…)スイスにおいては一般的にホスピス安楽死を遂げることはできません。ホスピスは自殺幇助を行わない、ということです。
なぜなら、ホスピスの関係者の多くは自殺幇助による安楽死に反対しているからです。自分から死を選ぶ必要はなく緩和医療で人は救える、自殺幇助による安楽死は認めるべきではない、という考え方がホスピスの基本的な立場です。

 

来年もすてきな本に出会えますように。

【Q&A集】 想像力とD&I | IBMのコミュニティーとアライ

北九州市に、日本アイ・ビー・エムのグループ会社である「IJDS(日本アイ・ビー・エム デジタルサービス株式会社)」が運営している「IBM 九州DXセンター(通称KDX)」があります。

30名程度でのオーブンから2年で200名規模(だったかな? 数字うろ覚えで間違っていそう…)と急成長中(現在も絶賛採用拡大中)なのですが、あたしパチもこ縁がありその関係を深〜くしておりまして、自分の中ではすっかり「思い入れある大事な拠点」となっています。

note.com

 

そんなKDXで一昨日、All Hands Meetingと呼ばれる全体ミーティングがありました。

「パチが普段気持ちを込めて活動している『ダイバーシティー&インクルージョン・コミュニティー』について20分話してよ」とお声かけいただき、一昨日何十名(60人くらいが会場参加だったのかなぁ…オンラインは何人くらいいたんだろう?)かの方に向けてお話しさせていただきました。

 

「おしゃべりが過ぎるタイプ」なもので質問タイムをしっかり取れず、「後ほど文章でお答えしますね」とセッションではお伝えしたのですが、質問内容が素晴らしく、普段から多くの方に伝えたいことだなぁと思う質問が非常に多かったので、社内に閉じずにこの場での回答することにしました。

なお、セッションでしっかりとその活動内容を紹介したコミュニティーは2つ。「PwDA+コミュニティー」と「LGBTQ+コミュニティー」です。

 

www.ibm.com

www.ibm.com

 

前者は障がい当事者と彼・彼女たちを応援する「アライ」と呼ばれる社員たちが中心となっているコミュニティー、後者は性に関するマイノリティーとアライによるたコミュニティーで、実施している活動とそこに込めた思いや考えをお伝えしました。

 

それでは以下、いただいた7つの質問への回答となります。プレゼン資料の中から関連するページも貼っておきますね。

しかし改めて、質問の質が高いなぁ。「真剣にみんな考えてくれているんだな」ってすっかり嬉しくなっちゃいます。

想像力とD&I | IBMのコミュニティーとアライ

 

1 マネージャーの視点として、メンバーに対する配慮の要否について外見からは認知しにくい側面もあり、見極めはどのようにしたらよいでしょうか?

 

マイノリティー性って、その多くは外見からは分からないものが多いですよね。そして外見からは分かりずらいものほど、当人には「隠そう。隠したい」という気持ちが働くんだと思います。すごく共感できるし、分かりますよね?

ですから、見極められないと思ったほうがいいと思います。見極めるのは無理、を前提にしましょうよ。

そして、「そうかも」も「違うだろう」もどちらも思い込まずに、気になるときには2人になったときに「こんなふうに感じたんだけどね、もしかしたら…」って言葉にして聞いてみることが大事かなって思います。

 

 

2 何から始めればよいのかと考えてしまいがちで、日常生活、社会生活のどういったところから始めればよいでしょうか?

 

そうですよね。考えちゃいますよね。

1番身近で、1番すぐできることからがいいんじゃないかと思います。

あらゆる瞬間に、何の準備も道具も不要ではじめられること——「想像力」から、ではないでしょうか。

「今耳にしたこの発言に対して、何かしっくりこないものを感じたけれど、この思いはなんだろう?」「このやりとりって、誰かを不当に搾取はしていないだろうか? 」。

そんなふうに、想像力を発揮して、もう一歩「これって…」を考えることをお勧めします。これ、癖になるといろんな観点からいろんなことが楽しめますよ!

When I'm Fifty‐Four

 

3 LGBTQ+といったセクシャルマイノリティに対して周囲にその秘密を暴露してしまう「アウティング」と呼ばれる行動が問題視されています。性的少数者に限らずマイノリティーの方に可能であれば配慮を行いたいと思う一方、当事者にとって秘匿するべき事柄であれば過度な干渉は避けるべきと考えています。こうした場面では、アライとしては待ちの姿勢であるべきか自発的な行動をとるべきか、どちらが良いのでしょうか?

 

アウティングは難しい問題で、「良かれ」と思ってやってしまうことがあるのも知っています。そしてそれが結果的には「よかった」となることもあります。

でも、やっぱりそれはすごく覚悟のいることです。本当に「そうした方がいい」と思ってやったことであっても、本当のところは当人にしか分かりません。大袈裟ではなく、その人の人生を狂わせてしまうことだってあり得ます(そういう場面にでくわした経験があります)。

原則は常に本人に。

そして他者のアウティングに気付いた時は、両者にそれを伝えましょう。

 

 

4 プロフィールの経歴を拝見しました。36歳まで様々な経験をされて、IBMに入社しようと思ったきっかけは何ですか?

 

100パーセント「縁」です!

就職する前、日本IBM派遣社員として数年働いていました。

その後、別の会社に就職し、うまくいかずに困っていたとき、「社員として戻ってきて、私のチームで働いてほしい」とお声掛けいただいたのがきっかけです。

いつも喧嘩していたマネージャーだったので、「この人はあたしの『ストレートな性格のことをよく知っていて、それでも声をかけてくれている。そんな人のもとでなら…」と思い、IBMに転職しました。 

#混ぜなきゃ危険

 

5 初対面のセクシャルマイノリティの方とコンタクトを取る際に相手側の意思を尊重するべきか、通常通り公平に接するべきか、判断に悩むケースが考えられますが、どのように接していけば良いかおすすめの方法があればご教示いただきたいです。

 

「相手側の意志」というのがどんなものなのか想像が今ひとつ付かないのですが、基本は「本人の意思」だと思います。ただし、自分その方の関係が、周囲にも影響を与えるものなのであり、それが周囲に困惑を与えたり混乱を招きそうなものであれば、その事を本人に伝えて、その上で全体を見る必要があると思います。

そうした状況・予測を当人に伝えた上で、どうするのが当人にも周囲にもよさそうかを一緒に考えるのがいいのかなと思います。

その際、理解しておいた方がいいのは「ほぼすべての当事者が、わざわざトラブルとなることを望んではいない」ということ。その前提で検討をスタートしましょう。

 

 

6 自身がD&Iについて取り組む上で、継続して意識していること、もしくは特に意識していることを一つ教えていただけますでしょうか。

 

自分が理解していることは、まだほんのわずかでしかないこと。限られた経験や知見しか持っていないことを忘れないこと。

「きっとこうだろう」と頭に浮かぶ想像が、いかに事実とは異なっているか。「こうすればよいのでは」と直感的に思ったことが、どれほど思い込みに囚われた発想に過ぎないのかを忘れないこと。

それを忘れないことが大事だと思っています。(でもこれ本当に難しくて…。「忘れないようにすること」を忘れちゃうんですよね)。

PwDA+コミュニティー | LGBTQ+コミュニティー

 

7 IBMで仮に自分がマイノリティ側で、相手に悪気がなくても傷つくことを言われた場合、それを相談できる場所は整備されていますか?

 

まさにそれこそコミュニティー! でも、それに抵抗を感じているのであれば、マネージャーでもいいし、マネージャーが頼りないなら、さらに上のマネージャーでもいいし、もちろんあたしでも! (って、もっと頼んないですねww)

「傷つく」レベルにもよるかと思いますが、お伝えしておくとIBMグループ社員であれば「I-Support」とという健康保険組合が提供している24時間365日どこからでも相談できる窓口もあります。

また、「メンタルかなりきつい」ってことなら頼りになる産業医もいますよ!

www.ibm.com

 

以上です。質問いただいた方の、そして誰かの参考になるところがあれば嬉しいな!

「わたし」と「社会」のつなぎかた | シブヤ大学18周年特別授業、勝手振り返り

シブヤ大学18周年特別授業『哲学とデザインで探る「わたし」と「社会」のつなぎかた』というイベントに参加してきました。

www.shibuya-univ.net

 

スピーカーが豪華! 話を聞きたい人ばかり! ってことで期待大で行ってきたのですが、予想とはちょっと違う方向ではあったものの、しっかり楽しめました。

(違う方向というのは、「哲学とデザインで」探っているようにはあたしには思えなかったってこと。でもそれはそれでよしで、最後にモデレーターをされていた坂口緑さんが「哲学を疑う哲学者とデザインを疑うデザイナーとのつながりかたの話でとてもよかった」と言っていたのに深く同意。)

 

で、ここで書いておきたいのは、タイトルでもある『「わたし」と「社会」のつなぎかた』というテーマ設定について。

端的に書けば、「つないだ方がいい」、「つながなきゃ」あるいは「つながらなきゃ」が前提であるような感じがするタイトルだな、と思ったし、企画者のシブ大 大澤学長の意識にはやっぱりそれがあったんじゃないかな。

あたしはそれに違和感があって。結論じみたことを言えば、「結果としてつながる」のであって、もっと「中動的」というか、「流れ」みたいなものなんじゃないのかな? と最近は思っていて。

 

イベントのわかりやすいレポートは近いうちにきっとオフィシャルの形で出ると思うので、それを知りたい人はもうしばらく待ちましょう。

というわけで、ここからは完全に「脳内変換」された「極私的覚え書き」です。

 

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谷川嘉浩さんは近著の人生のレールを外れる衝動のみつけかた』をベースに話されていて、「自分の衝動を大切にせよ」という話をしていた(と思う)。

そして「合理性や言語化できるものに引きずられ過ぎるな」とも。うん、同意。

www.chikumashobo.co.jp

 

そして富樫重太さんが話していた「自分(たち)の内側から出てくるものを小さくちょこちょこと発露させながら発酵させて、そこから溢れ出たものが(自然と?)外につながっていく。それでいいのでは?」という話(あたしにはそう聞こえた)が、まさにドンピシャで。

結局、自分(たち)がやりたいことをやるのに、なにか障害になるものがあれば人はそれを「取り除きたい」と思うのではないか。

その障害が自分の「外」にあるとき、それにアプローチしようとすることが「社会とつながる」ということなんじゃないだろうか。

 

そして自分(たち)の「やりたいこと」がなんなのかって、どんどんわかりづらくなっている気がしていて。

そんな「社会」においては、「自分がやりたくないことの本質」がなんなのかを深掘りすることが、谷川さん言うところの「自分の衝動を大切にすること」の、逆方面からのアプローチなんじゃないかな? とも。

 

もう一つ。富樫さんの話を聞きながら思ったことを。

フィンランドの「勝手サウナ」が、行政から怒られたり取り壊しを受けながらも、結局は行政支援のもと運用されるようになった話(詳しくは富樫さんたち3人による一般社団法人公共とデザイン著の『クリエイティブデモクラシー 「わたし」から社会を変える、ソーシャルイノベーションのはじめかた』に書かれているのでそちらで)って、やりたいことをやる人たちをdisったり野次ったりするのではなく、「いいじゃんそれ」って応援する人たちがいて実現するものだよなあって思いました。

 

モデレーションが『多文化化するデンマークの社会統合: 生涯学習が果たす役割とその可能性』を上梓したばかりの坂口緑さんだったからというわけではないですが、古くはクリスチャニアの存在を行政も市民も認めたり、最近ではデモクラシー・ガレージを民間主導で設立したりという、デンマーク(や北欧)のDIY文化に意識が向かうのでした。

www.kadensha.net

 

フィンランドのサウナやデンマークでのクリスチャニアなど、市民プロジェクトが行政と上手にコラボレーションできるのは、「周囲の支援する力」が大きく関係しているんじゃないだろうか。

「やりたいことがある人がやれる環境」をみんなで作っているのではないか。

 

翻って日本。

「やりたいことがある人がやろうとする、あるいはやり始める」と、それを応援するでも見守るでもなく揶揄ったりdisったりする人が多い。

それを学習しているから、やりたくてもやらない。

それを繰り返しているから、やりたいことがわからなくなる。やりたいことをやっている人が癇に障る。「自分は我慢しているのに。報われていないのに。なんだこいつ」って。

(本人が意識していないことも多いのかも、だけど)バッシングでもしなきゃやってられないよって…。それを見て「ああ真似していいんだ」って。

 

「自分(たち)のためになにかを変えたい」と思った人が、ある程度の安心感を持ってアクションできる社会に近づくには、遠回りのようだけど、やっぱり「結果はともかくやる人が讃えられる、あるいは本当は興味がないのなら放っておく」社会なんじゃないだろうか。

富樫さんが最後に話した「他の人のモヤモヤの発露を大切にするのも案外大事なんじゃないか。それを生かせる器を育てていくという方向性もあると思う」って言葉が強く印象に残っている。

大事にする方法って、積極的なものばかりじゃない気がしていて。そうっと放っておくというのも一つの大事にするやり方なんじゃないかな。

 

いろいろと広がっていくな…そろそろ止めよう。

大澤悠季シブヤ大学学長様、とても良い機会をありがとうございました!

 

あ、最後にもう一つ、これは書いておきたい。

「社会」ってなんだろう? 「わたし」以外のすべてが社会じゃないのかな?

スコットランド70日間滞在記番外編 | 仕事に対する価値観の変化

「仕事とは、自分や家族が生活するための金を得るものである。」

「仕事とは、自分の能力や興味、生き様を表現するものである。」

——仕事をしている人もしていない人も、おそらくは上の2つの文章のどちらにも「一定の真実がある」と思われるのではないでしょうか。

 

こうした、「自分は何のために仕事をするのか」という仕事に対する価値観(職業価値: work value)を、ドナルド・E・スーパーさんという著名な研究者が14の労働価値にまとめています。

少々長いリストですが、1つずつ見てみましょう。

 

自律性

命令や束縛を受けず、自分のチカラだけでやっていけること

ライフスタイル

自分の望むような生活を送れること

環境

仕事や活動環境が心地よいこと

能力の活用

自分のスキルや知識を発揮できること

社会的評価

社会に広く成果を認めてもらえること

愛他性

人の役に立てること

達成

良い結果が生まれたという実感を得られること

創造性

新しいものや考えを創りだしたり、デザインできること

美的追求

美しいものを見出し、または創り出すことができること

経済的報酬

たくさんの金銭・物質を稼ぎ、高水準の生活を送れること

冒険性

わくわくするような、あるいはスリリングな体験ができること

多様性

多様な活動ができること

社会的交流性

いろいろな人と接点を持ちながら仕事ができること

身体的活動

身体を動かす機会を持てること

 

ピンとくるもの、こないもの、あったんじゃないでしょうか。でも「この中から重要なものを1つだけ選べ」と言われたら、きっと、かなり迷うのでは?

というか、1つだけ選ぶなんて無理ですよね。

 

おれは以前、大学や会社で何度かこの14個を「総当たり戦」にして、勝ち星が多い順に並べ、周囲の人と見せ合い、対話をするワークショップをやったことがあります。

皆さんもぜひ、この総当たり戦を行ない、自分にとって重要な順番に労働価値を並べてみてください。(ちなみに、総当たり戦の試合数の計算式は「N(N-1)÷2」です。14の場合は14×13÷2で91試合ですね)。

なお、この順位には正解があるわけでも、優劣があるわけではありません。さあ、紙とペンを用意して。早速やってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …

……

………

…………

 

終わりましたか? じゃあ、おれの順番と比べてみましょうよ。

最初に表示した「自律性」から始まる順番が、おれの総当たり戦の結果順、仕事の価値観順位です。あなたの順番と似ていますか? それとも全然違います?

 

これまでも年に一度くらいのペースで自分の職業価値の変化をチェックしていたのですが、今年は順位の変動が久しぶりに大きかったです(こちらの『もっと働きやすい会社を選びたいなら | 八木橋パチの #混ぜなきゃ危険』で昨年の結果をご覧いただけます)。

workmill.jp

 

2つ以上順位を上げたものがこちら:

・ ライフスタイル: 自分の望むような生活を送れること

・ 経済的報酬 : たくさんの金銭・物質を稼ぎ、高水準の生活を送れること

 

2つ以上順位を下げたものがこちら:

・ 愛他性: 人の役に立てること

・ 社会的交流性: いろいろな人と接点を持ちながら仕事ができること

 

こうして変動したものを見ると、自分でも「エディンバラ暮らしの間に受けた精神的な影響が大きく作用しているからだろう」と思います。とりわけ順位を上げた次の2つには、こうした理由があるのでしょうね。

 

ライフスタイル: 自分の望むような生活を送れること

——20数年ぶりの海外生活を通じて、自分が「自分らしくいられるライフスタイル」に強いこだわりを持っていることを再発見しました。

 

経済的報酬: たくさんの金銭・物質を稼ぎ、高水準の生活を送れること

——エディンバラ生活の間、仕事上で価値を発揮できないことに対して感じた不安の一つが「このままでは職を失うのではないか?」というものでした。以前よりも、経済的報酬や職業的安定の重要さを感じるようになったんだと思います。

 

なお、順位を下げた「愛他性」と「社会的交流性」も、その理由は見当がついています。どちらも、ボランティア活動などを通じてその価値観を満たすことができるので、「仕事を通じてじゃなくても構わない」という意識が高まったのがその理由でしょう。

 

 

 

「自分が大切にしている価値観はxxxxだ」と強く確信を持っている人も、逆に「そんな価値観だのこだわりだの、別にないよ」と思っている人も、実はそれって環境にとても強く左右されているんじゃないでしょうか。

そしてそれは決して悪いことではなく、人はそれだけ状況への順応性を持っているということであり、学びを通じて自らを変化させる力を持っているということじゃないでしょうか。

 

pachi.hatenablog.com

スコットランド70日間滞在記その8 | 結論 - 試してみて分かったこと

スコットランド滞在記シリーズも今回で最終回。

「おれは今でも海外生活をしたいと本当に思っているのか?」を確かめた結果と、そこから見えてきた自分の未来についてまとめてみます。

 

■ 結論1 | どこにいても「そのままの自分」で生活できる

「海外で暮らしたい」というバクッとした「望み」。

それに対して、もっと解像度を上げて、海外暮らしに何を求めているのかをはっきり理解できたことが、今回のエディンバラ暮らしの最大の成果だと思っています。

 

おれが海外で暮らしたい1番の理由は「そのままの自分」で生きていたいから。

そこでの日々は「自分が何者か」を周囲に示す必要を感じない日常。20代後半で暮らしたクライストチャーチバンクーバーで、おれはその心地よさを強く感じていました。

だから、海外で暮らせば、心地よく自分らしく暮らせるんじゃないかと思っていたのですが、今回のエディンバラでの2カ月強の暮らしで、自分がその「心地よさ」をどこから感じていたのかを、かなりはっきり理解することができた気がします。

 

結論を言えば、「どこで暮らしているか」と「そのままの自分でいられる」ことには、直接的な関係がないことがわかったのです。

自分の心持ち次第で、どこにいようともある程度は「そのままの自分」でいられるようになったということ。そして自分らしくいることが与えてくれる心地よさは、どこで暮らしていても変わるものではありませんでした。

 

■ 結論2 | 何者か何者でないかはご自由にどうぞ

若かりし頃のおれは、周囲に「何者かだと思われなければならない」と思い込んでいて、「自分が何者か」をアピールする機会をいつも無意識に探していた気がします。

そして海外暮らしを体験して、「ここでは何者かだと思われなくてもいいんだ」と感じました。

 

でも、日本に帰ってくると、また再び「何者か」であると証明しようとした時期が続いていました。

…しかしいつ頃からか、「何者か」であるかどうかは、本当はどちらでもよくなっていたのです。いや、正確には、「何者か」であるかどうかを決めるのは周囲であって、おれが気にすべき問題ではないと、心から思えるようになったのです。

自分自身でいること。何者かであること(ないこと)。何者かだと思われること(思われないこと)。——周囲がおれを「何者か」「何者でもないか」のどちらに捉えようとも、おれはおれでしかない。それが伝わっていようといまいと、それが変わることもないから。

 

■ 結論3 | 何者であろうとおれは「表現者」だ

「何者か」どうかはともかく、おれは自分を「表現者のひとり」だと心から信じるようになりました。表現者とは、表現の上手い下手ではなく、表現せずにはいられない人間だということ。

言葉を使って思ったことや感じることを表現することが特に好きで得意だけれど、それだけじゃなくて。もっと色や音や動きも使って、湧き上がってくるものをなんらかの形にしたい。表したい。

それがどんな形でであれ、表現しないままにしておくことはできないのです。

(と書くと、なんだかかっこいい感じだけど、それは単なる鼻歌だったり、反抗的な態度だったりします。そして別に、オリジナリティーにこだわる気もないのです。)

 

こうして、自分の根幹に「表現者」としての自分が強く存在していることをはっきり自己認識できるようになったことは、自分がどこにいようと、何をしていようといまいと、「そのままの自分」でいられることに大きく関係している気がします。

 

■ 結論4 | 得意な文章でまだまだ勝負するために

昔のおれは「手段は問わず、なんでもいいから海外で生活したい」と思っていました。翻訳だろうが畳職人だろうが、蕎麦屋だろうがドライバーだろうが、海外で暮らせるならなんでも良かった。

 

pachi.hatenablog.com

 

でも、今はそう思えなくなりました。表現者であることを生活の中心に据えたいと思っていて、できるなら、得意な取材と文章を生活の糧として暮らしたい。なぜなら、それが、おれが幸福感を味わいながら暮らすための鍵を握っているとわかったから。

 

そしておれは、圧倒的に英語でよりも日本語での方がいい文章を書けます。いつか、英語でも日本語と同じくらいいい文章を書ける日が来るかもしれないけれど、でもそれよりも、おれは自分の日本語の文章力を磨き、もっともっといいものを書き、表現したいのです。

日本語文章を磨き生きていくのであれば、それは海外ではなく、日本の方が良さそうです。そして生活費という観点からも、これだけ日本円が安くなった世界では、日本円で稼いで海外で暮らすことは厳しいというのが現実です。

 

■ 最後に | 試しに行ってよかった

ここまでいろいろと並べてきましたが、「海外で生活する」ことの意味は、「そのままの自分」で生活したいおれにとってこの20数年間で大きく変化していました。

今後、もしかしたら、海外で生活することになるかもしれません。でも、もはやおれにとっては、「海外で暮らす」は目的ではなくなりました。

「暮らしてもいいし、暮らさなくてもいい」——たくさんある選択肢のうちの一つでしかなくなりました。

 

やっぱり、試しに行ってよかった。スッキリ。試さなきゃわからないことばかりだったよ。

スコットランド70日間滞在記その7 | 「レモネード」と「飛行機の中のパイロット」

スコットランド到着後の1週間ですっかり弱ってしまったおれ。でもその理由がわかれば、あとはやるべきことをやるだけです。

 

pachi.hatenablog.com

 

・ 必要以上に自信をなくさない。

・ そのためにも自分で物事を決定していく。

・ 自分が決めたことを楽しみながらやっていく。

 

おれに一時的に不足していた自己有用感と自己効力感、そして自己肯定感を取り戻すために、この3つを意識して着々と行っていきました。

…と書くと、なにか特別なことを始めたのかと思われてしまうかもしれないけれど、実際に行ったことはシンプルな次の4つ。でも、こんなシンプルなことでも、意識して行なうことでかなり大きな違いをもたらしてくれました。

  1. (雨が降っていない日は)長めのウォーキングをする
  2. (短くてもいいから)知らない人とも積極的に会話する
  3. (簡単そうな)料理に挑戦する
  4. 「弱った自分」を包み隠さず積極的に開示する

 

ところで、突然ですが皆さんは「エフェクチュエーション」という言葉をご存知ですか?

元々の英単語Effectuationは「達成」や「実行」を意味する英語の名詞。でも日本では数年前から、「優れた起業家の思考プロセスや行動特性。それを体系化した意思決定理論」という、ビジネス用語としてよく知られるようになりました。

でもこのエフェクチュエーションという行動特性、おれにはビジネスにかかわらず、主体的になにかに取り組みたい人にとっては常に役立つものに映ります。そして今回の自分の心境の建て直しも、エフェクチュエーションなアプローチだったのかな、と思うのです。

 

エフェクチュエーションの特徴である5つの特性を簡単に紹介します(詳しく知りたい人は、ぜひ「エフェクチュエーション」で検索してみてください)。

 

・「手中の鳥」(Bird in Hand)の原則

今、確実に手中にあるもの(アイデンティティ・知識ベース・社会的ネットワーク)から組み立てる

・「許容可能な損失」(Affordable Loss)の原則

失敗したとしても致命傷にならない、自分にとって許容範囲のリスクをあらかじめ設定して挑戦する

・「クレイジーキルト」(Crazy-Quilt)の原則

関係し得るあらゆる人や組織を「一緒になにを共創することができるだろう?」という視点で捉え、積極的に関わる

・「レモネード」(Lemonade)の原則

予期せぬ事態は絶対に起きることと考え、起きたときにはそれすらもテコとして前向きに活用しようとする

・「飛行機の中のパイロット」(Pilot-in-the-plane)の原則

どのような状況でも常に「コントロール可能なものはなにか」に焦点を合わせ、臨機応変に望ましい未来へと近づこうとする

 

エディンバラで暮らしていた間、特に自分にとって役立つと感じていたのは、「レモネード」と「飛行機の中のパイロット」でした。

 

「今、この精神的に弱っている状態のときじゃないと味わえないものを味わおう」という「レモネード」の原則から、自分がここ何年も経験していなかった精神状態に向き合い、それを未来に役立てることにしました。

そして「飛行機の中のパイロット」の原則から、自分の意思だけで続けられるものを見つけて選び、未来の自分にとって役立つ学びや経験を手に入れることに集中しました。

 

皆さんも、「今、厳しい状況にいるな」と感じたときこそ、ぜひこのエフェクチュエーションを意識してみてはいかがでしょうか。

(とはいえ、いきなりこの行動特性を導入するのもそれほど易しいものでもないので、普段から少しずつ取り入れていくことをオススメします。)

 

スコットランド70日間滞在記その6 | 有用感と効力感と肯定感

・ 自分の価値を、仕事を通じて発揮できない

 → 他者からのポジティブなフィードバックや評価を受けられない

・ 仕事に身の入らない人間に、給料を貰い続け資格はあるのか

→ そもそもの自分の能力や実力に疑念を持つ

 ・ 価値を発揮できない自分を受け入れられない

  → 自身の存在そのものに対して疑念を持つ

 

スコットランド到着後最初の1週間で自分が襲われたのは、この3つの不安だった。

心理学的な言葉で表現すると上からそれぞれこうなるのだと思う。

 

・ 自己有用感欠乏 | 自分が役に立っている、有用である、と信じる感覚。およびそれを感じる機会の減少から生じる状態

・ 自己効力感欠乏 | 自分の能力とポテンシャル、遂行能力を信じる感覚。およびそれを感じる機会の減少から生じる状態

・ 自己肯定感欠乏 | ありのままの自分の存在を受け入れる感覚。肯定的に自分を捉えられる機会の減少から生じる状態

 

pachi.hatenablog.com

前回、エディンバラ到着後わずか1週間でこの3つが自分に起こった原因を、「日本語でのフィードバック不足」「英語力不足」「慣れない居候暮らし」だと書いた。

今回、そこをもう少し深掘りしてみようと思う。もしまたいつか、同じようなことが起きたときに、教訓として活かせるように。

■ 自己有用感欠乏 | このままじゃきっと「お役御免」だ…

こう見えても、おれは「大丈夫。おれの仕事や活動に価値や意味を見出してくれている人がいる。今のおれには居場所がある」と感じられる機会がないと、不安になりがちなタイプなのだ。

そんなふうに「自分は価値を発揮できている」と感じたがる部分は、仕事以外にも及んでいて。日本では毎週数時間、おれは海外にルーツを持つ子どもの勉強のお手伝いをボランティアとして行っている。

でも、時差の関係もあり、エディンバラで暮らしている間はその活動を停止していた。

 

その結果、おれは「自分は会社に対しても、社会に対しても、意義や価値のある活動ができている」と実感できる時間を失くしてしまっていた。子どもたちやボランティア仲間から感謝して貰えるという「ご褒美」を、手に入れられなかったのだ。

今思えば、どうして短期間でも短時間でもOKのボランティアを現地で探そうとしなかったのだろう。

 

■ 自己効力感欠乏 | 英語力不足で臆病に

前回書いたように、自分の英語力不足を正しく把握できていなかったことがもたらしたものは小さくなかった。

そしてここ数年、仕事で使う英語は「間違っても、気づいたらすぐにその場で誤りを修正できる」通訳などのリアルタイム性の高い仕事よりも、翻訳などじっくり一つひとつの言葉に取り組む仕事の方が多かった。

さらに、スコットランド英語特有の発音や言い回し…。自分の耳がニュースなどで聞く「きれいな発音のきれいな言い回し」にすっかり慣れきってしまっていることを実感させられた。

 

英語に対する自信のなさが、おれを臆病にしていきました。今思えば本当に大失敗だ。

もっとちゃんとチャレンジして、もっとちゃんと失敗すればよかったのにおれ。

 

■ 自己肯定感欠乏 | 自己否定感は打ち消せたけれど

誰かの家で暮らしていると、どうしてもその誰かに合わせなければいけない。

仲の良い姪っ子夫妻とはいえやっぱり気は使う。キッチンを使う時間も、トイレやシャワーを使う時間も、リビングで過ごす時間も、彼らの邪魔はしたくない。迷惑はかけたくない。こんなおれでも、大好きな相手だからこそ気を遣うのだ。

 

ただ、もともとのおれはかなり「自分流」にこだわりが強いタイプだ。何をいつどのようにやるか。あるいはやらないか。それを自分で決められないことに、強烈なストレスを感じる。つまり、自分が意思決定することを通じて、自分自身の存在意義を感じることができるのだ。

ありのままの自分の存在を受け入れ、肯定的に自分を捉えるには、おれには自己決定の積み重ねが必要だった。

 

■  自己決定と実行と自信のループ

どうやら、エディンバラでの最初の1週間は、そんな自分を思い出し、じっくりと見つめ味わい、理解するための時間だったようだ。

最初は打ちのめされたけれど、自分がどうして弱くなっているのかその理由をはっきり掴めてからは、ペースを取り戻すことができた。

足りなかったのは自己決定する機会。そして決定したことを実行して楽しむこと。周りに振り回され過ぎず自信を持つこと。

 

この3つはそれぞれつながっている。自信があれば自己決定できる。自己決定したことはやりたくなる。楽しくやれれば自信がつく。

スコットランド70日間滞在記その5 | 人は環境が9割

周囲からのフィードバック不足。自分の英語力不足。さらに、慣れない居候暮らし(パートナー以外の人と暮らすのは、ワーキングホリデーでルームメイトと暮らしていた25年ほど前が最後)。

はたして、自分はどれだけ「意味のあること」を行えているのか。どれだけの「価値」を、雇用主であるIBMに提供できているのか…?

そこに居たのは、急速に自信を失い、我ながら驚くほど不安を感じている自分だった。

pachi.hatenablog.com

 

こんな仕事に身の入らない人間に、会社は給料を払い続けてくれるのだろうか?
そもそもそんなおれに、給料を貰い続ける資格なんてあるのだろうか?

 

エディンバラ到着後すぐ、そんな思いで胸が一杯になってしまっていた。

こんなにも、自分の価値を発揮できないなんて。そして仕事上で価値を発揮できない自分を、こんなにも受け入れ難いなんて…。

そこに居たのは、急速に自信を失い、我ながら驚くほど不安を感じている自分——。

負のスパイラルに飲み込まれ、まったく仕事に身が入らなくなってしまった自分に、自分自身が驚いていた。そしてそのまま1週間ほど、不安を抱えて過ごしていた。

 

「ビビっているときやネガティブな気持ちのときに、未来のことを考えてもろくなことにならない。」

「未来は誰にもわからない。それなのに未来を心配して悲観していたら、悲観する理由がない現在まで台無しにしてしまう。」

——ある朝目が覚めると、自分がよく人に言っていたそんな言葉が、急に頭の中に浮かんできた。

そう。ただ心配して不安に思い気を揉んだところで、何も変化を起こすことはできない。なるようにしかならないのだ。

 

アクションを伴わず、未来を心配するのは、無駄だ。

集中すべきは「いまここ自分」。いまを、ここを、自分を、より味わって、より楽しもう。

やれることにだけ意識を集中し、楽しめるものを楽しむ。ここ10年は、そうやって暮らしていたじゃないか。

 

自分がこの1週間、冷静さを失っていたことに気がつきました。

海外で暮らせば、周辺環境が変わるのは当たり前です。きっと、海外暮らしの夢を忘れて、日本での日々の生活や仕事に馴染み過ぎていたのでしょう。

 

仕事内容にかんしてはそれなりにアンコンフォタブルなことも敢えて選び、やったことないこととかにも挑戦するようにしていたけど、「海外で働く」という周辺環境の変化は未経験ゾーンでした。

どうやら、自分でも意識しないうちに「コンフォートゾーン」(心理的な安全領域)にすっかり染まってしまっていたようです。

 

それにしても、不慣れで落ち着かない環境に踏み出した直後に、こんなにも精神的に大きく揺らぐとは…。

仕事や生活で主導権を持てない状況がわずか1週間続くだけで、おれはこんなにも簡単に自信を失い、自分自身に対する主導権すら失いそうになってしまう人なんだな。そして、パートナーとこれから2カ月以上別々に暮らすことへの不安もあったと思います。

…だって、寂しかったもの。

 

…我ながらシンプルだなと思います。

でも、考えてみれば昔からそう、隠しきれずに分かりやすい反応を示すタイプでした。

 

とはいうものの、これほど「弱い自分」をしっかり味わうのは久しぶり。なんだかちょっと懐かしいかも。

「よし。せっかくだから、少し『弱っている自分』を観察して楽しもう。」

そんな風に自分をちょっと俯瞰してみたら、少し、楽しくなってきました。

 

「人は環境が9割」。そんな言葉を聞いたことがある人も多いと思います。

あれって本当ですね!

スコットランド70日間滞在記その4 | 到着1週間で「不安」に飲み込まれる

エディンバラでの生活がスタートするひと月ほど前、勤め先であるIBMでの所属部門が変わった。主な仕事の内容はそれまでと変わらない。インハウスのライター兼編集者として、取材し記事を書き発信する。そのための事前の段取りであったり、公開後の関連作業を行ったりということだ。

だが、仕事内容自体に大きな変更はなくても、仕事を通じてやりとりをする社内の関係者や仲間の顔ぶれやコミュニケーションの仕方は大きく変わることとなった。

そしてその変化は、自分が想像していたよりも、遥かにずっと大きな違いをおれにもたらすものだった。

 

部門が変わる前は週に1度、いつものメンバーとオンラインで45分のミーティングをしていた。そこでは、自分が直接は関わっていない件についても話を聞いたり、それに関する意見を交換したり、ときに雑談や近況報告なども頻繁に行っていた。

「パチさんのあの記事を読みましたよ。締めがよかったです。」「あそこであのエピソードはちょっとしつこい気もしました。」——そんなふうに、自分の文章へのちょっとしたフィードバックをもらうこともしばしばあった。

ところが、時差9時間(10月最終日曜まで。それ以降は夏時間が終わり時差8時間)のエディンバラで仕事を始めて、そうした「ちょっとしたコミュニケーション」や「フィードバック」をもらう機会が激減した。

専用のひと部屋を貸してもらっているとはいえ、日本時間に合わせて現地で真夜中にオンライン・ミーティングに出る気はしなかった。

また、チャットツールなどでの「軽いコミュニケーション」も同様で、時差の関係ですぐに返事がすぐにもらえないタイミングだからと、こちらからチャットを送ることもしなくなっていた。

エディンバラからもほど近い、ダンファームリンのアンドリュー・カーネギーの生家にて。現在はこぢんまりとしたやさしい感じの博物館になっています。

 

また、エディンバラ到着後の最初の1週間で、自分の英語力不足を感じるシーンが何度かあった。

普通に会話するだけなら問題はなくても、込み入った話を聞き相手の感情の深いところを探る——そういう「取材」には英語力が足りていないことを実感したのだ(スコットランド訛りも難しかった…)。日本語で取材して作っている記事を10としたら、今の状態では、英語では3や5がいいところだろう…。

日本にいるときに思い描いていた飛び込み取材は、取りやめることにした。

 

周囲からのフィードバック不足。自分の英語力不足。さらに、慣れない居候暮らし(パートナー以外の人と暮らすのは、ワーキングホリデーでルームメイトと暮らしていた25年ほど前が最後)。

はたして、自分はどれだけ「意味のあること」を行えているのか。どれだけの「価値」を、雇用主であるIBMに提供できているのか…?

そこに居たのは、急速に自信を失い、我ながら驚くほど不安を感じている自分だった。