Collaboration Energizer | #混ぜなきゃ危険 | 八木橋パチ

コラボレーション・エナジャイザーとは、コラボレーションの場を作り、場のエネルギーを高め、何かが生みだされることを支援する人

デザイン思考を超えて | デンマークデザインセンターのChristianさん講演メモ

デンマークデザインセンター(DDC: Danish Design Center)のリーダーであるChristian Basonさんによる講演とQA『デザイン思考を超えて: 持続可能なイノベーションに向けた倫理的アプローチ』に現地参加してきました。

 

おそらく、近いうちにYoutubeか何かで動画公開されると思うので、講演の様子などはそちらをお待ちいただきたいのですが、いくつか個人的に印象的だった言葉ややり取りのメモを残しておきます。

Youtube動画がアップされていたので、この記事最下部に埋め込んでおきました。)

 

● 「倫理とは、自分たちができる能力の限り搾取する方法を設計することではない。
製品やサービスを倫理的にデザインするための「エシカル・デザイン・ツールキット: The Digital Ethics Compass」。

 

"The Digital Ethics Compass: Put the Human at the Center"

 

● 「ネットフリックスのデザイナーの最大の競争相手は『睡眠』。

人を睡眠不足にすることが目的となっているようなサービスの倫理性とは? 私たちは考え直さねばならないのではないか。

 

現代社会では多くの若者が精神的な疾患を抱えている。

デンマークでは18歳の若者の6人に1人がメンタルの問題を、15-25歳の女性の4割が何らかの精神的な不安を感じているという。

 

● Copenhagenization | コペンハーゲナイゼーション。

自転車移動を中心とした都市インフラの再構築。(ここ数年はさらに一歩進んでウォーカブルシティ(Walkable City)に


● デザイン思考は手法やプロセスや道具や部屋ではない。「思考の重要性」を取り戻さねばならない。

● Q: デザインの境界線とは何なのか?  A: 問題の境界線とは何なのか?

 

ここからは、QAタイムでおもしろかったものを。

Q: コロナはDDCの仕事や役割にどのような影響を与えましたか(あるいは与えませんでしたか)?

A: 仕事のやり方を完全に見直した。これまでの「ヒエラルキー型」から「ネットワーク型」へと変化した。各メンバーが自分のやりたい仕事を選んでそれにコミットするようにした。

つまり管理を手放し信頼を中心に据えた。

 

Q: デンマークのデザインのハブとして作られたBLOXに「デンマークっぽさがない」とのことだが、今後も巨大コンサル企業によるデザインブティック・ファームのM&Aが進めば、もっとたくさんのBLOXが生まれるのでは?

A: BLOX自体が悪いデザインではないけど…でも、デンマークのデザイン会社にやって欲しかったよね。そして今後も巨大コンサルのインベージョンは進むのかもしれない…。これは、カルチャー、システム、バリューが支配されることを意味しており、長期的にデザインを蝕むだろう。…

でも、ローカル色を大事にする中堅デザインファームに期待しようじゃないか!

 

Q: ダイバーシティとシンプリシティはどのように同居させていくことができるのか?

A: 難しい。だが、ダイバーシティをリスペクトし大切にするシンプリシティが重要だ。データは物理的な法則であるエントロピーに向かう。それを抑制させる矜持がデザイナーには求められる。

ダイバーシティとデジタルとデザインは、人びとを解放すものであるべきだ。

 

Q: デザインの成功はどのように測られるべきか?

A: 以前は多くの場合で「プロフィット(収益)」だったと思うけど、今、求められているのは「トラスト(信用)」ではないか。これは難しいチャレンジではあるけれど、ビジネスにおいても行政においても同様だと思う。

それにプラスして、環境と社会のサステナビリティーだ(そしてこれは計測と公表まで含めてデザインすることが大切)。

 

主催、共済の武蔵野美術大学ソーシャルクリエイティブ研究所さん、RE:PUBLICさん、ありがとうございました!

3年前もおもしろかったけど、今回もおもしろかったです。

 

クリスチャンさんの本読もうかな。でも、英語のこの本をガッツリ読む時間、今取れるかな??

 

北九州のうどん屋で

先週、北九州市に地域イノベーションの視察&ワークショップに行ってきました。

介護、ロボット、資源循環、再エネ…あたりのテーマでいくつか施設を訪問させていただき、最後にぜーんぶまとめてアイディエーションという感じの2日間で、刺激が多く楽しい時間でした。

おれは北九州市は初訪問だったのですが、「なんでこれまで行っていなかったのかな?」と思いました。役所の方たちや地元企業の方たちからは「まだ極々一部しか見れていませんよ」とのことだったので、次の訪問が楽しみです。

 

北九州エコタウンとエネルギーパークのことを書こうかな、とも思ったのですが、ちょっと時間がないのでそれは写真を何枚か見ていただくとして、ここで一番書きたいのは、実は、本編の視察&ワークショップからちょっと外れた「資さんうどん」というお店でのできごとについてです。

 

 

「しさんうどんって、変な名前だなぁ。食べたらお金持ちになるとか、そういう"願掛け"的な名前かな」なんて思いながら、まったくの予備知識なしに入ったうどん屋さん。

時間はお昼ちょっと前だったのですが、前を歩いていた人がどんどん入っていく様子に、思わず「じゃあおれも」と吸い込まれました。(あ、そうそう。名前は「しさん」ではなく「資(すけ)さんうどん」ですって。)

 

4人がけのテーブル席と、4人が横並びになるカウンタースタイルの席がずらっと並ぶお店は100人くらいは入れそうな大箱で、「はいこちらどうぞ!」と言われるがままに奥の方のカウンタースタイルの真ん中に座りました。

「ゴボ天ってあんまり東京じゃ見ないよねー」「天かすだけじゃなくて、とろろ昆布も入れ放題ってすごくない!?」なんてことを考えながら、早速注文。

「え、おはぎ?? おはぎが名物のうどん屋…。ディープだぜ」と、結構厚めのメニューをしげしげと眺めながら、ゴボ天うどんがやって来るのを待ちます。その間にも、お客さんはどんどんやってきます。大人気。

 

「一番奥の、4人並びのテーブルの真ん中が空いてるからどうぞ!」

その声で、店の奥へと歩いていくおばあさん。「歩くの難儀そうだな…」。

ゆっくりと片足を引きずるように、杖をつきつき。

「おばあさん、ここどうぞ」と、通り過ぎようとするおばあさんに、スーツ姿の若い男性が声をかけました。

「店員さん、まだ注文届いてないからいいですよね? ほら、ここ端の席で座りやすいし。」そう言うと、自分の荷物を持ってささっと一番奥の真ん中席へ移っていきました。

 

地元の人にとっては、もしかしたらなんでもないシーンなのかもしれません。

でも、北九州市でおれが最初に入った店で見た光景がこれ。惚れるわ。

 

(少し食べてから、天かすととろろ昆布とたっぷり投入しました。)

 

…そしてこちらはその4日後。東京にて。

 

 

Happy Collaboration!

ぱちはらダイアログ56〜60

ぱちはらダイアログも60回(そして明日の夜は61回目)。それでは今回も直近5回を振り返ります。ゲストの皆さま、ご登場ありがとうございました!

安岡美佳さん(ロスキレ大学准教授)
中山みずほさん(世田谷区議会議員) 
石川淳哉さん(Social Good Producer)
栗本拓幸さん(株式会社Liquitous Founder/CEO)
平岩国泰さん(新渡戸文化学園理事長)

いや〜、こうしてお名前を並べるといつも思うことなんだけど「おもしろい顔ぶれ」だよね。
それでは、ちょこっとですがふりかえってみます。

 

ぱちはらダイアログ vol.56 「民主主義と地域とIT」ゲスト 安岡 美佳さん(2022/11/14)


番組の中でも言ってるけど、おれはけっこう長いこと安岡さんを追っかけているファンで、今回ようやくゲストに来てもらえてめちゃ嬉しかったです。

デンマークについて語る日本人は多いけど、彼女のようにしっかりと専門性を携えて語る人はそうでもないよね。そしてこれは失礼かもしれないけれど、どこか、「どこ(どの立場)にいても完全にしっくりはきていない」感じが漂っているところに、彼女の誠実さを感じるのです。

おそらく、今年は直接会える機会もあると思うので、その辺りについてもいつか聞いてみたいな。

 

ぱちはらダイアログ vol.56「民主主義と地方政治とキャリア」中山みずほさん(2022/12/11)

これ、本当はvol.57です。Youtube上の登録などもろもろが間違っております。

My「カッコいい政治家ランキング」のベスト3に入っているのが中山みずほさん。こういう政治家がもっとどんどん増えてくれたら、街はもっといい所になるし、人びとはもっとオープンに意見を交わすようになるのではないだろうか? って思います。

この放送の中ですごく印象的だったのが「職業として政治家をやっている人が少なくないのよねぇ…」って話。誰だって職を失いたくはないだろうけど、だからこそ「しがみつく」のではなく、政治家には政治をして欲しいよね。

政治家の皆さん! あなたのお仕事は「対立を作って票を集めること」ではありません。対立を調停して合意を作っていくのがお仕事ですよ〜。

 

ぱちはらダイアログ Vol.58 「民主主義とSocial Good Producer」 石川淳哉さん(2022/12/18)


栄えある「58回目にして自分から立候補して来てくれた最初のゲスト」である淳哉さん。ありがたいなー。

この回、原さんはほとんど存在せず、おれが淳哉さんにいろいろと質問する回になっています。考えてみると、複数人で一緒に話すことはあっても、2人だけでちゃんと話したのは初めてだったのかも?

そして「斉藤徹さんがこの3人をつなげた」という話が出てきますが、番組の中で言われるまで気づいていませんでした。たしかに、おれと原さんをつなげたのも、淳哉さんと原さんをつなげたのも斉藤さんですね。最近会えてないからそろそろ会いたいな。

 

ぱちはらダイアログ vol.59 「民主主義とデジタル」ゲスト 栗本拓幸さん(2022/12/29)

ここ数カ月、月に1度は誰かを交えて栗本さんの話を聞いたりディスカッションしたりしています。彼は政治に関して広く深い知識を持っていて、制度そのものにあまり興味が持てずかつかなり偏った知識しかないおれにとっては、彼との話はいつも学びの場になります。ありがたい!

番組で一番「ハッ」とさせられたのは、「新しい投票制度の社会実装」について。おれはなぜか「選挙の投票制度を変化させること」が最初にあるべきだと思い込んでいたんだけど、栗本さんがいうように、それはいろんな場面で試して、みんなが「この方が良くね?」ってなってからでいいよね。というか、そうじゃなきゃおかしなことになるよね。

おれも早くLiquitous社のLiqlidを使った地域政治に参加してみたい!

 

ぱちはらダイアログ Vol 60「民主主義と教育」平岩 国泰さん 新渡戸文化学園理事長、放課後NPOアフタースクール代表(2023/1/9)

「日本の学校は遅れている」って言って海外の制度に目をやる人が多いけど、実際に社会実装を進めるつもりだったら平岩さんが理事を務める新渡戸文化学園に目をやれば良いのでは? と強く思いました。

ただ、エッジが立っているからなのか、学校に対する評価はかなりバラつきがあるみたいね。いわゆる「進学が正義」みたいな価値観の親や生徒にはウケが悪いみたいな話も最近耳にしました。まあ、それでいいんじゃない? とおれは思うけどね。ただ、持続可能性という意味では、しっかり生徒数が確保できることは重要なんだろうけどさ。でも、どこでも変わらない似たような学校で同じようなことを真似して生きているフリするなんてつまらな過ぎるよね。

来月中には中野行って学校見学するぞー(もっと近所にあったらしょっちゅう遊びに行くのになぁ)(…ってそもそもそんなに簡単に遊びに行けるものなのか知らないけど)。

 

明日(1/16 21:00〜)のゲストはコモンズ投信の馬越裕子さんです。お楽しみに!

Happy Collaboration! 

 

2022年読書棚卸し

今年はこれまでに92冊の本を読みました。冊数的には例年通り(去年より微増ですが、誤差の範囲)ですね。

本はおれにとっては特別な存在。他メディアに対するものとは違う、特別な愛があります。だってこんなにも間口が広くって、情報が凝縮されていて、そしてハンディ。まだまだ他より抜きん出てた存在だと思っています。

そんなわけで、来年もたっぷりと本を読もうと思っていますが、その前におれにとっては恒例の、年に一度の読書棚卸しを(なお、ここに挙げているのは、すべて「おれが今年読んだ本」であって、「今年出た本」ではありませんので悪しからず)。

 

 

 取材・執筆・推敲 書く人の教科書

すごい本です。何度かシビレが止まらなくなりました。そしてこの分厚さにもかかわらず「もっと! もっと!」となります。
「書く人の教科書」というタイトルにある通り、何かを書く人にとっては必ず何らかの学びがあります。そして書くことにこだわりや思いがある人は、その強さに応じた分量の響きがあるでしょう。

ライターは、「編集者の読みたいもの」をかたちにするために雇われた、下請け業者ではない(…)なぜなら、作家やライターに求められているのは、「編集者の読みたいもの」を超える原稿だからだ(…)編集者の期待を上回ってこそプロのライターなのだし、「この人の期待を上回ろう」と悪戦苦闘する行為が、 すなわち共同作業なのだ。 

ひとつの原稿を10日かけて書こうと、1日で書いてしまおうと、読者にとってはどちらでもいい(…)10日かけて書いた原稿に10日ぶんの評価と報酬を求めるのは、タイムカードを手にした時給労働者の発想だ。時間や労力に応じた評価・報酬を求めることもまた、時給労働者の発想だ。時給に生きていないかぎりライターは、「時間」と「労力」から自由であらねばならない。

 

クララとお日さま

「人間を人間たらしめているブラックボックス」がテーマであり、その周辺としての社会や制度、そして人間そのものに対する問いかけがたっぷりと詰まった一冊。人間よりも人間らしい行動原則を持つクララは、人間の勝手なあったらいいな、あって欲しいなが具現化されたモノ。AIが人間に近づくことと、人間がAIに近づくことと、私たちはどっちをより恐れるべきなのだろう? 

 

ヘルシンキ 生活の練習

大人と子ども、日本とフィンランド、常識と不思議。違っているところをそのまんまにしないできちんと見ると、必要だけどほっぽらかしになっていたものがいろいろと分かるものなのかもしれない。ちゃんと、困っているときは声を上げよう。そして声を上げている人に向き合おう。声を上げるのに躊躇している人を積極的に支援しよう。

誰かが苦しいなかでもがんばるのをみて、私たちは喜んでいないだろうか。誰かが公私の別なく、すり減らしてがんばってくれることに、私たちは感謝していないだろうか。
そこで「あなたががんばらなくちゃいけないのは、仕組みに問題があるんじゃないですか」なんて言うのは、熱意を削いだり揶揄したりする、悪意ある発言と取られるだろう。個人ががんばらなくても問題がないようにするために、公的な制度があるはずなのに。

私は、思いやりや根気や好奇心や感受性といったものは、性格や性質だと思ってきた。けれどもそれらは、どうも子どもたちの通う保育園では、練習するべき、あるいは練習することが可能な技術だと考えられている(…)もっとあっさりと「ここはもうちょっと練習しましょう」と言われるだろう(…)「根気がない」という「性質」は、単に「何かを続けるスキルに欠けている」ということになる。そして、そのスキルを身につける必要があると感じるなら、練習する機会を増やせばいいことになる。

 

海をあげる

それにしても、とんでもないものを渡されてしまった。「申し訳ないけど受け取れません」と言っても、それはもうすでに言葉にして手渡され、受け取ってしまったのだ…。常にそれを覚えていることも、考えて暮らすこともきっとおれにはできない。だけどせめて、波の音がどこかでしたときは、おれはおれの海に思いを馳せ、しっかりと見守るようにしよう。

近所の小学生と立ち話をしているとき、私たちのちょうど真上をパイロットの顔が見えるほどの近さで軍機が飛んだ。軍機が飛び去ったあと、「びっくりした! うるさいね!」と私が怒ると、「うるさくない!」とその小学生は大きな声で即答した。その子の父親が基地で働いていることを、あとになって私は知った。
近所に住む人たちは、みんな優しくて親切だ。でも、ここでは、爆音のことを話してはいけないらしい。切実な話題は、切実すぎて口にすることができなくなる。

私は静かな部屋でこれを読んでいるあなたにあげる。私は電車でこれを読んでいるあなたにあげる。私は川のほとりでこれを読んでいるあなたにあげる。この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる。

 

声の在りか

おれの「鉄板」、一番好きな作家さんである寺地はるなさんの作品。どれもすべて好きなわけですが、今年読んだ中でベストはこの作品かな、と。いつも通り途中で「読み止める」ことができず、そしていつも通り読みながら泣きました。
この作品は親の子どもへの眼差しを通じていろんなことが描かれているんだけど、改めて人はいつでも成長できるし、成長は他者評価に基づくものではないな、と。

「子どもを悪いもの、悪いことから守るのは大人の役目ですよね」
要の言葉に大きく頷く。そのとおりだ。
「でも子ども自身がなにかを感じて、自分で切り抜ける力を持っていると信じることも同じくらい大事なんじゃないですかね」

たったひとことで状況を一変させるような、魔法みたいな強い言葉は、きっとこの世にはない。それでも自分の言葉を持ちたい

 

〈叱る依存〉がとまらない

家庭や学校、仕事や人間関係など日常のあらゆる場面に、構造化された〈叱る依存〉が組み込まれていた…。できるだけ早くみんながそれを認知し、「これは叱る依存だ!」と指指すようになれば、社会からDVや虐待、パワハラや厳罰主義、バッシングや行き過ぎ校則がなくなるのではないか? ひょっとしたら著者のこの本における指摘から、社会はグッと安全で住みやすいところになるのかもしれません。人類をアップデートする可能性を感じました。
ブログに読書メモ書いてます。

叱る人が「状況の定義権」を持っている権力者であることを思い出してください。それは、その場において何が「正しい」「あるべき姿」なのかを決める権限です。その権限があるからこそ、自分は「正しいこと」を主張し、状況を「あるべき姿」にしようとする課題解決者なのだと感じるようになるのです。すると叱る人にとって、問題の責任は何度言っても同じことを繰り返して困らせる、目の前の叱られる人にあることになります。 「私は努力している。悪いのはこの人だ」 叱ることがやめられなくなっている人は、無意識のうちにこのような発想になっていることが多いのです。

目的のための自発的な我慢と、他者から強要された我慢は、まったく別の体験だからです。強要された我慢と、自分で選んだ我慢。これらはどちらも同じ「我慢」と表現されますが、人の内側で起こっていることは大きく異なります。だから、明確に区別する必要があるのです(…)「今この瞬間には本来必要のない我慢」を与えたくなったら、要注意です。もしかしたら〈叱る依存〉の罠にハマってしまっているかもしれません。

 

THINK AGAIN 発想を変える、思い込みを手放す

大好きなアダム・グラント、いつものようにうならされました。そしてこちらもいつものごとく、楠木建の解説がすばらしかったです。翻訳ものが苦手な方は、解説だけでも読むことをお勧めします。

ほとんどの人は、自分の信念、信条、理念に基づいて自分を定義することに慣れてしまった。しかし、世界がめまぐるしく発展し、知識も進化していく中で、そうしたことが自分の考えを変化させていく妨げになるようでは問題だ。自分が間違っているかもしれないと考えること自体が許しがたくなり、自説を神聖化することにもなりかねない(…)自分は誰なのか。アイデンティティを問う時、あなたの信念ではなく、価値観に基づいて自分を定義するべきだ。価値観とは、人生の中核となる原理である

心理学者のジョージ・ケリーによると、信念は「現実を捉えるためのメガネ」のようなものだ(…)とりわけ人が攻撃的になるのは、守ろうとする信念が間違っていると心の底でわかっている時だ、とケリーは指摘する。そうすると、人はメガネを変えて別の見方を試すかわりに、ものごとを曲解するようになる。

 

モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く

まるっとまとめてしまいたくなるところにしつこく粘り強く入っていける人は、それだけでもう尊敬してしまいます。
とはいえこの本が呪いを解いているかどうかは…どうかな? でも、呪いであることを明らかにしていることは間違いないです。

意見に対し善し悪しをつけたり解決策を示すのでもなければ、現状に対して「仕方ない」と追認するのでも拒絶するのでもない道を選ぶということです。
主観に開き直るのでもなく、客観に逃げるのでもない。ヒートアップすることなく、第三者の立場ではあっても決して傍観するわけではない。しかも、いつでも当事者として関わる体勢は整えておきたいのです。複雑な世の中であるからこそ白黒つけられないところに留まる足腰の強さはあったほうがいいでしょう。

常識は日常からの逸脱を抑制する穏やかさであると同時に、穏当さに釘付けにする狂気でもあり、常に二重性を孕んでいることです(…)人から「それは常識として古い」と言われたら、ショックだし、その先を素直に聞くのは難しくなります。そうなると、いくら「頭を柔らかくしないと時代についていけませんよ」と忠告してもあまり効果は期待できないでしょう。なぜなら持ち前の考えを手放さないことで得られる利点がその人にはあるからです。たとえ、それが他人からは不合理に見えたとしてもです。

 

思いがけず利他

なんとなく気になってはいたけどこれまで手に取ることはなかったままだった著者の本です。NHKUAと対談しているのを見て、俄然おれの中での注目度がアップし、数えてみたら今年3冊読んでいました。なるほどおもしろいし読みやすい。

談志を主線にからませつつ語っていくところにはパンクを感じました(とはいえ、おれにはちょっと「仏教という哲学に寄り添い過ぎ」な感が強すぎるところも)。

私は、現代日本の行きすぎた「自己責任論」に最も欠如しているのは、自分が「その人であった可能性」に対する想像力だと思います。そして、それは自己の偶然性に対する認識とつながり、「自分が現在の自分ではなかった可能性」へと自己を開くことになります。

通常、利他的行為の源泉は共感にあると言われています。頑張っているからなんとか助けてあげたい。いい人なのに、うまくいっていないから応援したい。そんな気持ちが、援助や寄付といった「何かをしてあげたい」動機付けになっています。窮地に陥った人を助けるにおいては意味のあることでしょう。一方で、例えば重い障害がある人たちや、日常的に他者の援助やケアが必要となる人はどんな思いをするでしょう。恐らく、こう思うはずです。「共感されるような人間でなければ、助けてもらえないのか」と。

 

推しエコノミー「仮想一等地」が変えるエンタメの未来

おれがまったく興味を持っていないアニメ、ゲームを中心としたエンタメの地殻変動についての本で、ここまで深く唸らされるとは思ってもいませんでした。すごいなこの著者。ぜひ一度話を聞いてみたいし、おそらくはエンタメ以外に関しても恐ろしく鋭い切れ味を見せることでしょう。いや〜すごい本でした。

「萌え」という内的体験ではなく、「推し」という外的体験に、人々の趣味活動はソーシャル化している。消費ではなく表現なのである。
価値はすり減らず、所有して個別に嗜好するものではない。価値は広げて振りまくほどに、さらに価値を持つ。むしろ広げて振りまく機能のない20世紀型の商品は、価値のポテンシャルを広げる機会を失っている

ユーザーにとって趣味趣向は「消費財」ではなく「表現財」となり、いかに自分を「関与させていくか」という対象になった。だから「推し」として関与対象を表明し、かつては個人的・非政治的だったサブカルコンテンツを、社会的でときには政治的に楽しむ「祭り」型のコンテンツとして扱うようになってきた。この領域を世界的に先導しているのは日本であり、規模で日本を圧倒する米国や中国にはない先端的な事例にあふれている。

 


ここ一年で急速に鳥目が進み、ちょっと薄暗い場所で読むと目がやたらと疲れるんですよね…。

でも、来年以降もしっかりと「本な人」でい続ける気まんまんなので、みんなのおすすめの一冊もぜひ教えてください!

Happy Collaboration!

超私的『ソーシャルコミュニティが社会を創る』読書メモ

 

やれやれ。でも他ならぬ田口さんの…あれ?

正直に言おう。出だしの「はじめに」、そして第一章「なぜ今コミュニティが必要なのか」を読み終えた時点では、「やれやれ。田口さんどうしてこんな『教科書みたいなキレイゴト』の本を書いたのかな? こんなの田口さんがわざわざ本にする必要ないんじゃない?」と思ってしまったのだ。

とは言え、他の誰でもない田口さんの本だ。どれだけつまらなくてもしょーもなくても最後までしっかり読み、「どこがどうつまらないか」「何がもっと踏み込んで書かれるべきだったか」をしっかり本人に伝えるのに、おれ以上の適任者もそうはいないだろう——なぜか、おれはそう思い込んでいました。

 

そんな、おれの薄っぺらい思い込みが覆され始めたのは、45ページくらいからだった。

「対話」を軸とした田口さんと仲間たちの一石を投じる取り組みが、経済・社会・環境のトリプルボトムラインとつながり始め、波紋となって広がっていく——そんな機会がどんどん増えていった、田口さんが3×3Laboをスタートする少し前の時代について書かれていたあたり。

気がつけば、それまでの醒めた視点でページをめくるおれはどこかへ消えていて、田口さんが書き記した言葉に納得したり共感したり、ときに「いや、この部分ずいぶんと端折っちゃったじゃない。まあ文章だけで説明するのはすごく難しいところだからしょうがないか」なんて、すっかり夢中になって読んでいました。

 

昔話 | おれと田口さんのこと

ここで少しだけ、おれと田口さんのことを書いておきたい。

おれが田口さんと出会ったのも、この本で言えば先述の45ページ辺り、2010年だったと思う。当時、おれは「EGMフォーラム」というコミュニティの活動にガッツリと関わっていて、一方で社外の対話やワークショップなどにも積極的に参加していた。

そんなあるとき、「EGMフォーラム」の毎月の会合にゲストで田口さんがワールドカフェを紹介しにやってきてくれた…ような気がしている。実はこの辺り記憶が曖昧で、先にEGMフォーラムの誰かが「ワールドカフェに興味があるなら、田口さんって人が毎月開催しているよ」と聞いて参加したのが先だったのかもしれない。

 

ともあれ、当時の「Future Innovation Cafe」というシリーズタイトルで田口さんたちが主催していたワールドカフェに初めて参加したときの感想を、「ワールド・カフェもやもや賛歌」として2011年の8月におれは書いています(ワールドカフェの後、反省会にも参加させてもらったことも書いてますね)。

 

当時のおれはコミュニティマネージャーとしては経験が乏しかったものの、自分なりのコミュニティ論みたいなものは持っていて、それを実証したり進化させていくのに夢中でした。

ただ、当時のおれが持っていたのはビジネスコミュニティとオンラインコミュニティの経験だけで、オフライン&実社会に開かれたコミュニティーの経験は圧倒的に薄っぺらでした。そんなおれには、田口さんは2歩くらい先を進んでいる感じの人で、ちょっとジェラシーを感じていました。

 

そして少し経ってから「企業間フューチャーセンター有限責任事業組合(LLP)を田口さんが立ち上げたときには、「企業間って言葉、むしろ邪魔なんじゃないかな?」と思ったことを覚えています。それから「田口さんは企業とか産業側に寄るよりも、もっと社会とか民間側にいる方がいいんじゃない?」と思ったことも。

さらに言えば、「おもしろそうだけど、果たしてどうなるもんかね〜?」と、いくらかクールに(そしてちょっといぢわるに)思ったこともぼんやりと覚えています。

とは言え、名前や組織形態は変わっても、田口さんたちが開催するワールドカフェは楽しく、積極的に参加していました。

 

その後、田口さんはエコッツェリア協会に転職。あの当時は3×3Laboが「Future」をまだ名前につけていなかった頃。期間限定で富士ビルや日本ビルで活動していました(この辺りの話は本にも詳しく書かれています)。

そして3×3Laboもだけど、田口さんも、周りにいた仲間たちも、そして何よりもおれ自身がものすごく手探りでいろんなことを試し、吸収していた時間だった気がします。

当時、今後の身の振り方について考えていたおれや企業間フューチャーセンターの人たち、そして田口さん自身の、未来の働き方や雇用主との関係などを、いろいろ対話したり相談したことを今でもよく覚えています。

特に、37歳まで就職というものを経験したことのなかったあの頃のおれは、どんなスタンスと目つきで社会や会社というものと折り合いを付けていけばいいのか、今振り返るとイマイチ掴みきれていなかったような気がします。

それに(今もそうだけどもっとずっと)おれは不器用で生意気でした。

そんなおれを田口さんがガッツリ受け止めてくれて、たっぷりの愛を込めて話してくれました。あのとき聞かせてくれた言葉は今でもしっかりとおれに根付いています。田口さんありがとう。愛してるよ!

 

すっかり年寄りの昔話が止まらなくなっているじゃないか! どこが「少しだけ、おれと田口さんのことを書いておこう」だ。

でもまだまだ書きたいことはあるのでまたどこかで。そして誰か、今度「田口論」をお話ししません?!

これってもう6年以上前なのね。

 

本文からの引用(と蛇足)

さて、本に話を戻して。いくつか引用したい。まずは、おれがしびれたところ。

 

■ よく聞く言葉「コミュニティ作りは儲かるのか?」

社会性を伴う活動は、経済的価値も生み出すということである。ただ少し問題なのは、社会的な活動が「お金」として還元されるには時間がかかるということだ。また自社がまいた「社会性」が実を結んだとき、自社ではなく他社に経済的価値を享受されることもある。そのため、企業がコミュニティづくりに取り組んだり、さらには我々のように交流施設の運営などを目指す際、その有効性は理解されつつも、明確な目標設定やゴールの共有が難しいという壁にぶつかるかもしれない(…)刈り取り(マネタイズ)だけを考えるのではなく、価値の源泉を創る活動が大切だという考え方だ。その結果が出る時期が読めない、あるいはせっかく育て上げたものが他社のものになる、ということを許容すれば良いのである。

 

さらっとすごいことが書かれている。チョーすごいことが。あまりにもさりげなく書かれているので、読み飛ばしてしまう人もいるかも?

ここに書かれているのは、まずは 「コミュニティ作りは価値あるものである」ということ。だがしかし、結果が出る時期は読めず、さらにその上「結果」なるものが自分たちのものになるとも限らないということだ。

「他社のものになるということを許容すれば良い」って、これ、「はい、そうですか。」ってGoサインを出す経営層が果たしてどれだけいるんですか? という話ですよね。

だからこそ、それを進めているエコッツェリア協会(とその中核支援企業である三菱地所)にはリスペクトしかありません。(他の企業もむしろ狙い目ですよ。CSRとしてもCSVとしても、これ以上凄みのある「企業の社会へのコミットの本気度」を示すものありませんよ!)

 

 

■ 物理的な場がある意味と、それがもたらす価値(ストックとインターフェース)

物理的な場があるコミュニティと、そうではないコミュニティでは、制約が異なることを肌で感じていた。当時自らイベントを主催する際は、公共施設や会社のイベントスペースなどを都度借りており、内容に応じた場所の剪定やその交渉の難しさに直面していたのだが、この「借り手」の経験は施設運営を行う立場となった現在、大いに役立っていると感じている(…)アイデアを出し合うときと同様に、「場」があると具体的なアクションに移った際にも多くの人を巻き込むことができる。最初は小さな活動でも、仲間が増えていけばそのボリュームも大きくなる。場には、人と人が繋がる、アイデアを交換し知識を束ねる、そして一緒に行動する人を増やしていく力がある。

 

社会に開かれたコミュニティーを運営している人なら、あるいはある程度の規模のコミュニティーのイベントを開催したことがある人なら、誰もが「自分たちの場所があったら…」と思ったことがあるはずだ。そして場所の問題から活動が停滞していく、消滅してしまったコミュニティーも少なくない。

田口さんには3×3Labo時代、本当に場所のお世話をたくさんしてもらった。その後3×3Lab Futureになった頃からは、自分のコミュニティーのイベントや集まりよりも、3×3Lab Futureの目指す方向性と相性の良い、相乗効果の高そうなコミュニティーのイベント会場として仲介させてもらったり(今後も「場所」の面からサポートしてもらう気満々なのでよろしく!)。

そしてイベントやコミュニティーの主催者は、自分たちが3×3Lab Futureの未来に何を提供できるかって観点で考えてから、3×3Lab Futureに問い合わせてみるのがいいんじゃないかな。

 

■ 社会性を伴う利己(利他的自己中心)

利他を考える上で、まず大切なのは自分自身のことである。利己的な人と利他的な人は対比して考えられることが多いが、理想的なのは利己的なことを追求していたら、自然と利他につながっている状態である。言い換えると、利己の目的が社会性を伴っていることである。自分を知るのは容易いことではない。だが、これをおろそかにするとコミュニティなど他者との交わりの中で、自分は何がしたくて参加しているのかが分からなくなってしまう。自分自身をしっかりと表現して、他者とつながることが大切だ。

 

自分を知るために他者を知る。他者を知ることで自分が見えてくる。

利他と利己ってそんなにきれいに区別がつくものじゃないと思うし、たいていはどこかでつながって循環していたりするものだと思う。一方的に利他だけ、利己だけって行為はそんなにないんじゃないかな? 少なくとも、利他だけ利己だけの人はいないと思うんだ(なので、学術的には動機は問わず他人のためになる自発的な行動は「向社会的行動」と一まとめにされることも多いみたい)。

 

 

ここまで断片的な部分ばかり取り上げてしまったけれど、最後に本全体に対してコメントしておきたい。

この本は、コミュニティ運営の実践者や検討中の人にとっては教科書や手引きみたいな使い方もできるし、コミュニティの研究をしている人にとっては3×3Lab Futureというかなり特殊性の高いコミュニティの歴史とスピリットを掴むのに最適な一冊だろう。

今となっては柔らかく暖かい感じに「エスタブリッシュド」を振りかけたような雰囲気が漂っているあの場所も、一朝一夕に出来上がったわけでないし、田口さんを中心にたくさんの人のたくさんの想いが集積して凝縮して成立し、今も進化・発展を続けているのだ。

 

そしておそらくは、「おれもその進化・発展の一部にかかわってきたもんね。」と言いたがる、おれのような人が何十人も、ひょっとしたら数百人いるのではないだろうか? 実はそれこそが、3×3Lab Futureがこれからも価値創造を続けていく拠点であることの証明なのではないかという気がおれにはしている。

 

あ、最後に蛇足を。

何人かのインタビューが挟まっているのだけれど、松岡夏子さんのそれが秀逸です。

インタビュー内容そのものもなんだけど、それ以上に、インタビュイーとして登場する数人の中で松岡さんが最も「中の人」感が薄いのにもかかわらず、文中で一切3×3Lab Futureと松岡さんのかかわりについて触れられていないのです。

普通なら「で、なぜここでこの人のインタビューが??」となるはずなのですが、なぜかそこに違和感を感じさせません。むしろ、触れられていないところに絶妙さを感じました。これは、松岡さんがおよそ20年一貫して持ち続けているテーマと、そのダイナミックな活動の進化が、3×3Lab Futureの進化と絶妙にシンクロしているからじゃないでしょうか。

 

田口さん、ステキな本をありがとうございました! (ねえ、本には書いていないけど、ドロドロした部分も結構あったよね〜。)

Happy Collaboration!

『〈叱る依存〉がとまらない』読書メモ

著者の村中直人氏はNeurodiversity at Workの代表取締役で、[一社]人子ども・青少年育成支援協会の代表理事です。そして臨床心理士公認心理師であり、元スクールカウンセラーとして教育現場にいらしたそうです。

と、肩書き的なものを並べましたが、おれにとって一番のポイントは、とっても感銘を受けた一冊『ニューロダイバーシティの教科書 | 多様性尊重社会へのキーワード』の著者である、ということです。

 

でも実は、それに気づいていないまま本を手にしていたんです…。

だから、読み始めの序盤では、「ひょっとしてこの著者、何かというと「都合の良い行動心理学的なエピソードを持ち出してくるタイプ? …だとしたら、そういうのちょっと食傷気味なんだよね…」と思ってしまいました(失礼!)。

ですが、実際にはまったくそんなことはなく、学説や調査結果も適切な量を適切な強度で提示してくれていて、そんな心配はまったく無用でした。

 

■ 本書における「「叱る」の定義

言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為

 

本の内容ですが、家庭や学校、仕事や人間関係のさまざまな場面に〈叱る依存〉が問題の根っことして巣食っており、構造化して社会に組み込まれてしまっているのではないか。それを解きほぐしていくのにはどうすれば良いか、が論じられています。

そして論じられる社会問題は、「DV、虐待(マルトリートメント)、パワハラ、問題校則、厳罰主義、依存、バッシング」などの多岐にわたっていて、それぞれ〈叱る依存〉との強い関連が「そういうことか!」とスッと入ってきます。説得力高し。

以下にザッとキーワードを挙げておきます。何か惹かれるものを感じる方には強くオススメしたいです。

  • 苦痛神話
  • 正当化欲求
  • ヒエラルキーの維持
  • 処罰感情
  • 「正義」を使った他者のコントロール欲求
  • 自己治療仮説
  • 厳罰化による再犯率上昇
  • 「ディフェンスモード」と「冒険モード」
  • 社会的な常識のアップデート

 

「なぜ、これまで〈叱る依存〉という人間の根源近くにあるものに気が付かなかったのだろう?」と、この本を読んで不思議に思う方がきっとすごくたくさんいると思います(だからこそベストセラーになっているのでしょう)。

おれもその一人で、これまでそんなふうに考えたことは一度もなく、想像したことすらありませんでした。

 

「それではなぜ、その視点からの考察におれは辿り着かなかったのか?」について改めて考えると、やはり自覚することなく、「叱るという行為」に自分が大きな特権を与えていたのだろうと思います。それはおそらく、子どもの頃から、権力や権威と強く結びついて行使される場面をあまりに多く目にし過ぎていたから。

特におれの場合、ガキの頃から強烈な反権威主義者だったこともあり、権威者それ自身への批判的な視線が「叱る」というその発露の一つに目がいかなかったのかもしれません。

あるいは、「権威者と自分」という構図が強過ぎて、それを第三者的に俯瞰する目線が持てなかったのかも…。

 

■ みんなで〈叱る依存〉を正当化する

生存者バイアスに限らず、〈叱る依存〉の正当化につながる言説がこの社会にはたくさんあります。私にはそこに、根強いニーズがあるように感じられます。叱り続けることを、なんとか「正しいこと」「必要なこと」「当然のこと」にしようとしている人が数多くいるのです(…)〈叱る依存〉を擁護したい人たちは、同じ考えを持つ人たちと強く結びつきます。そして、こうした結びつきが、ある種の社会的な影響力を持つようになっていくのです。

 

いずれにしろ、著者の〈叱る依存〉を「降りてきた」モノ的に捉え、「広く伝える義務」のような役割を感じているという話にも、とても共感しました。これ、人類をアップデートするものだよ!

 

■ バッシングの背景

叩かれる人は「罰を受けるべき人」「叩かれてもしかたのない人」だという、叩く側の共通認識があるようです。誰かがそのように認定されることで、多くの人の処罰欲求が刺激されるのでしょう。それは直接の接点のない、単なる傍観者にも起きます。処罰欲求は本来、自分たちのコミュニティを守るために存在する感情の働きだと考えられます。しかしながら、現代社会のバッシングや炎上はコミュニティを守るどころか、過度な対立や争いを引き起こし、むしろコミュニティを壊す方向に働いてしまっている場合も多いように思います。

 

■ 素朴理論との戦い

「人は、苦しまなければ、変化・成長できない」という誤った、そしてとても根深い、苦痛神話とでも呼ぶべき素朴理論からの脱却(…)叱ることがすなわち厳しくすることだ、という認識自体がそもそも誤りです。「厳しさ」の本来的な意味とは、「妥協をしない」ことや、「要求水準が高い」ことだからです。要求水準を高く保つことは、相手にネガティブ感情を与えなくても可能です

 

■ 「叱る」を自然に手放していくために

まずは、あなたが「権力者」であることを自覚しましょう(…)こうなってほしい」という願いが「こうあるべきだ」にすり変わり、「叱る」と結びつく時、それを誰が望んでいるのか、という主語が不明確になってしまうことが多々あります。特に注意すべきなのは、それが「普通」「常識」「当たり前」という言葉とともに語られるような場合です。

 

Happy Collaboration!

ぱちはらダイアログ51〜55

ぱちはらダイアログも昨夜で55回。最近5回にご登場いただいたゲストの顔ぶれはこちらです。

皆さまありがとうございます!

熊谷文音さん(日本IBM
山田雄介さん(WORK MILL編集長) 
能條桃子さん(NO YOUTH NO JAPAN 代表理事
原田竜馬さん(世田谷区議会議員選挙立候補予定)

 

それでは、ここ5回を振り返ってみます。

続きを読む

飯能で日本の森の未来を考えてみた。が…

数年ぶりに埼玉県の飯能の森に行ってきました(10月8日(土)~9日(日))。

森林浴ガイドをしてもらったり、西川材から箸を作ってみたり、温泉に浸かったり、鐘をついたり、固定種から作られた野菜たっぷりのごはんを食べたり…と、五感をしっかり使って森を感じることに重点が置かれた気持ちの良い1泊2日のツアーで、すっかりエンジョイしてきました。

コーディネートをしていただいたエコッツェリア協会さん、小野なぎささん、そして飯能の関係者の皆さまありがとうございました!

 

ただこのツアー、タイトルにあるように、主題は「日本の森の未来を考えよう」というもの。

よく知られている「国産木材があまりに低価格で林業がビジネスとして成立していない」という状況を中心に、そこから連鎖して起きているさまざまな問題について、ツアーの合間に解説をしていただきました。(なお、参加者が森林プロ(マニア?)な方たちばかりで、主催側だけではなく参加者同士でも多くの課題と現在の取り組みが共有されて、ステキな学び合いの場になっていました。)

 

とはいえ、日本の森の未来を明るくするための打ち手や考え方がサクッと浮かび上がってくるわけもなく…。ツアー中の懇親会などでは「未来を考える」ために必要な視点が自分の中に十分備わっていないことを感じました。

これは説明が難しいのですが、「日本は昔から森と共に暮らしてきた世界有数の森林国家なのだから、森を守っていくべき」や、「激甚化する自然災害から身を守るためにも、健康な森を再生しましょう」という正論だけでは、世論も人びとの行動も動かないだろうなぁと感じるんですよね。それで動くのであれば、もうとうに動いて変化が形になってきているんじゃないかな。

 

そんなことを考えながらここ1週間を過ごしていたところ、今朝、たまたま目にしたこの記事に多くのヒントをもらった気がします。

森は多種多様な植物や昆虫、微生物などの生き物とともに、それらをとりまく土や水、大気などの「非生物」からなる複合的な生態系をつくり出しています。

地形などの環境によって様々に異なるこの複雑な生態系について、森のエネルギー源となる窒素や炭素の側から30年間に渡り研究しているのが、京都大学フィールド科学教育研究センターの德地直子さんです。

森は川を通じて里や海とつながっています。その膨大なフィールドを視野に入れたとき、果たして人間はどのように森と関わっていけばよいのでしょうか。

 

<木材・水質・土砂崩れ・癒し・生き物のすみか>の個々の問題のインパクトと、動的なシステムとしてホリスティックに捉えたときの未来の姿。

これをもっと総合的に、分かりやすく伝えていくこと。そして個別の問題に取り組んでいる人たちがしっかりとつながり、大きな1つの取り組みとして前進させようとすること。足りないのはそれなんじゃないのかなぁ。


…と、素人考えではあるけれど、そういうふうに考えたくなる人が増えていくのもきっと大切なことだと思ったので、おれも今後引き続き考えていくための現状認識のメモとしてこれを残しておきます。

 

以下、楽しかった方の記憶も写真メモとして。

 

iPhone14 Proを買うときに自分に起こったこと

「それはあなたが高いものを買うのに慣れていないだけでしょう」って声も頭の中で聞こえてはいるんだけど、iPhone14 Proを買うときに自分に起こったことが割と興味深かったのでメモしておきたい。なんだか、いろいろ自分ごとになった感。

これは本題ではないんだけど、まず、なぜ買おうと思ったのか。

おれは道具に対しては「高い満足を得たい」というよりは「強い不満を感じたくない」というタイプだ。そして新しいものに飛びつくタイプでもなく、自分が最新機能的なものを使いこなせるとも思っていない。そんなおれはここ数年iPhone SE(第2世代)で満足していた。

だが、先日iPhone13 Proでテキトーに写真を撮られて、それを見てビックリしたのだ。「え、こんなに雑に撮ってもキレイじゃん!」って。

これまでも何度か「新しいiPhoneの写真はキレイだねぇ」と思う場面はあった。でも、それは撮る人や撮り方に「なるほどね」があったのだ。写真を撮る前の準備や後工程であったり、撮り方の工夫であったり。

でも、その自撮り棒で雑に撮った写真はすごくキレイだった。

 

「よし、じゃあおれも買おう」とこうしてなったけれども、ここでぶつかったのが「高いお金をかけてキレイな写真を撮る必要なんて、おれにあるんだっけ?」という問い。

そしてその問いにはペアとなるもう1つの問いがある。「スマホに15万円もかけるような、そんな価値観で生きているんだっけおれ?」

 

この問いに答えをくれたのが、友人の一言だった。

「僕も違和感を感じていたんです。でも、写真撮ってパッと見せると『キレイに撮れてる!』って相手に喜んでもらえることがすごく増えました。今では、みんなが喜ぶ機会を得ることができたのでよかったって思っています」。

なるほど! みんなの笑顔が増えるならお金かける価値はあるね!!

それに、おれは記者のはしくれで、写真を撮ることも仕事の一部だしね。「え、そのiPhoneで写真撮るんですか?」って、これまでに何人か取材させてもらった方にに言われたこともあったな。
「仕事だから」をいろんなことの言い訳にしてしまうの、本当はよくないことだと思っているんだけど、でも、まだ現実には自分の中でその価値観は決して小さくないんだよなぁ。

 

ということで、昨夜注文しました。

「いや、Appleで注文しても電気量販店で注文しても、納品時期は変わらないと思いますよ。『Appleストアの方が良い点』ですか? うーん、間違って注文してしまった場合、2週間以内だったら返品できるってことくらいですね。値段もかなりするものですから、ポイント還元とかあるならお得なところで買った方がいいんじゃないですかね?」ってAppleストアの店員さんに言われたのでBicカメラで。配達時期不明。

 

それで、実はここからが今回自分にとって1番の発見で、これを書いておこうと思った理由なんですが、色を決めるのに迷う自分にビックリしたんです。

はて、何が自分を迷わせているのか? と考えてみたところ、それが「失敗したくない」だったんですよね…。

 

ディープパープル、ゴールド、シルバー、スペースブラック。

どれもキレイで、どの色にも惹かれます。「一番人気はスペースブラック」「ディープパープルがあるのは14だけ」「上品さで言えばやっぱりゴールド」と、みんないろんな理由を言っています。ただ、ストアで実際に見てみても「この色のがいい!」と心に浮かぶものはありませんでした。

じゃあどの色でもいいじゃんって話なんですが、なぜか、「選ばなかった色の方が良かったって、後から感じたくない。思いたくない。」という意識が強く働いているのだと気づきました。

 

どれ「も」いいは、どれ「でも」いいであり、どれ「が」いいではない…。

選ばなければ、後悔することはないのです。好きなもの1つを選ぶということは、それ以外の3つの可能性を消し去ることであり、正解、あるいは成功が仮に1つだとしたら、失敗する確率の方が3倍高いということになります。

 

…と、ここまで考えた段階で、「これって、最近あちこちで話している『自分の道は自分で決めた方が良い。自分で選択することが大切』って話と同じじゃん」と思ったわけです。

最近の若者は自分で選べないとか、自分の意見を言うのはカッコ悪いとか、そもそも意志表明することがイミフとか、いろんなことが世代論・若者論的に言われているけれど、失敗したくないが前面に出てきた自分となんら変わらないなぁって。

少なくともおれの中にはそういう要素があって、それをネガティブなものとして受け止めている。

みんなはどうなんだろう? 自分の中にそういうのがあるからこそ、それを認めたくなくて否定したり非難したりしている…?

最近読んだ本に<とりわけ人が攻撃的になるのは、守ろうとする信念が間違っていると心の底でわかっている時>という言葉があったのを思い出しました。

さっき、「好きなもの選ぶということはそれ以外の可能性を消し去ることであり、失敗する確率を高めること」と書きました。みんなはそれについてどう思うんだろう?

それから、「好きなものがない中で選ぶということ」についても聞いてみたい。

みんな、どれくらい好きなものがない中で選んでいて、それに対してどんな思いを抱いているのだろう? もはや当たり前過ぎて、なんとも感じない?

 

さて、いつ届くことやら。

アメリカン・ユートピアとシナプス可塑性 — We ALL need Reasons to be Cheerful.

「この映画なんか話題になってたのは覚えている。そして今、なんだかいつも観るようなのとは違う映画が観たい気分…。まあ、とりあえずオープニングだけでも見てみるか」とスタートして5分。「やっぱ違うの観ようかな? でもまあもう少し」と続けた。
ナイスおれ。でかした昨夜のおれブラボー! 今年最高の映画だった。なんだこの爽快感。

 

トーキング・ヘッズはバンドマン時代のおれのガンチューには入らないバンドで、ほとんど聞いたことがなかった。そしてそれはその後ソロになったデヴィッド・バーンに関してもまったく同じ。聞いたことがない。

いや、より正確に言えば、多分何度か聞いている。だが一曲も記憶に残っていない(あ、サイコ・キラー…)。

 

そして、より正直に言えば、今回この映画(舞台)を見ていなければ、それは今もそうだったかもしれない。ファンにはぶん殴られそうだが、「曲(音)」という枠組み、あるいは単位で見たときには、それくらい(おれにとっては)彼の曲は大して色を持たないものなのだ。

でも、それがこのグループのステージから届くと、すべての曲が素晴らしいパフォーミング・アートとなり、力強いメッセージとなるのだ。そして失ったと思っていたシナプスが、結び直されていく(ところで、試しにSpotifyで『American Utopia on Broadway』を聴いてみたんだけど、やっぱ舞台の映像が頭に浮かび上がってこないと響いてこない…。逆に映像が頭に浮かぶとすっかり音楽に意識が向いてしまって…BGMにはできない感じ。というわけで、映画で観てほしい)。

 

ところで、デヴィッド・バーンのあの語り口と、あのグループの肉体性を伴った(だがクリシェ感は薄い)表現は、なぜこうもハラハラとベタつきの少ない涙をおれに流させるのだろう? これはもう奇跡っていっていいレベルだと思うんだけど(なんなんだあれ? どうしてこんなに浄化されている感覚になるんだ!? …多分、肩の力が抜けた誠実でフラットな政治的な問いかけも関係しているのだろうな)。

 

例えばダンサーが空を飛ぶような動きをしたら、観客は自分も飛んでいるような感覚が味わえる。たとえダンサーみたいな身体能力がなかったとしてもね。それがダンスのすごいところだと思う。でも、ダンスがトゥーマッチになると、その共感するフィーリングが感じられなくなってしまう。音楽や言葉と繋がりを持ちながらダンスをする。そのバランスが重要なんだ。

デヴィッド・バーンが歌い、踊り、語る 『アメリカン・ユートピア』 | CINRA

 



この文章を書いている主な理由は、少しでも多くの人がこの映画を観て「日本公演の実現を!」と騒ぎ出して欲しいからだ。

きっと去年映画館で公開されたときには、上に書いた「デヴィッド・バーン…んんー」っておれみたいな奴が多かったことだろう。それに、「映画館に行くのには抵抗がある」って人も多かったことだろうしね。

でも、Amazon Primeで観ることができる今なら、きっと違うのでは?? これを観たら「舞台で観たい! 生で観たい!!」ってなる人はかなりいると思う。

 

まあ実現することはない…のかもしれない。それでもそれを望む多くの声があることが、デヴィッド・バーンやあのチームに届いて欲しい。

We ALL need Reasons to be Cheerful.

 

ラクダはどこからやってきたのか。ひつじとヤギの上前歯はどこに行ったのか。

昨夜は、友と美味しいハラル飯。今朝はその残りものを。(テキトー仮説の答えを確認

  • Q: なぜ人間だけが乳歯を持っているのか?
  • Q: ひつじとヤギの上前歯はどうしてないのか?
  • Q: ラクダはどこからやってきたのか?

 

Q: なぜ人間だけが乳歯を持っているのか?

仮: 人間は進化の過程で二足歩行を始め、未熟児同然の状態で頭蓋骨をすぼめて産み落とされるようになりました。その際に顎の成長も2段階に分けられ、生まれて数年は弱い乳歯を支えられるレベル、次に強力な永久歯を支えられるレベルと成長する仕組みとなったのです。

続きを読む

自然じゃなくて、いぶきやゆらぎだった。

自然が好きだと思っていたけど、違った。

最近、友人たちに続けざまにこの話をしていて、昨日もすごく恋しい気持ちが募ったので書いておく。

おれは自然が好きだと思っていたけど、違った。
川っぺりを散歩していぶきだったりゆらぎだったりを感じるのが大好きだったってこと。

 

半年ほど前に引っ越しをしました。引っ越そうと思った理由は、マンションに大がかりな外装工事が入る予定だったから。それにすでに、近隣の騒音にも嫌気がさしてきていたから。

引越し先の条件は、まずは騒音リスクが最も低い「最上階角部屋」。それから、自然を味わえそうなところ。

そんな条件で5部屋くらい見に行き、「ここ」って決めたのが今住んでいるところ。一番の理由は大きな大きなベランダと窓。そして5階なのにドーンと目の前に聳え立つヒマラヤ杉。

「ふと外を見ればヒマラヤ杉がドーンと目に飛び込んでくるなんて、家にいても自然を感じられていいじゃんいいじゃん! それにべランピングやってみたかったんだよねー。春が待ち遠しいな」ってな感じで決めました。

 

ところがですね。最初の2カ月くらいで気づいたんですけど、窓から見える景色って、大して変化しないんですよ…。もちろん、よーく見れば日に日に間違い探しの上級編的に変化はしているのでしょう。その証拠に、2週間とか1カ月とかの単位で見ると、変化しているのが分かります。

ただ、川っぺりのように、そこにくる鳥が昨日と違っていたり、咲いている花の数が昨日よリグッと増えていたりっていう、日々の変化をまったく感じないんです。昨日と今日と明日が同じ感じ。

さらに、時期になると魚が大量発生したり、繁殖期になって鵜や鴎の顔がガラッと変わったり、ツバメの親が子どもに飛びかたをコーチしてたり、夏の夕暮れにこおろぎがワサワサと飛んでいたりっていう、ダイナミックな季節の変化も川っぺりを散歩しているときは感じられたんです。

ちょくちょくサンドイッチを買ったりカップスープとお湯を持っていったりして、30分くらい川をずーっと眺めたりしたけど、まったく飽きなかった。なんならもっと長くゆらぎを感じていたかったし、草と虫と魚と鳥とあの猫やこの猫やその猫のいぶきを味わっていたかった。

ベランダで、ヒマラヤ杉を見てても、3分で飽きちゃうんだよ…(鳥たちがくる時間は別)。

 

また命を感じられる川っぺり近くで暮らしたいな。引越し考えちゃうな…。とは言え、まだ1年も経ってないからもう少し様子を見るけどね。

まったく同じ川っペリに戻るのもなんだかなぁ。せっかくなら、新しい出会いも欲しいし。

岸本聡子さんが区長になった杉並区あたりを流れている善福寺川周辺とか? まだ一度も行ったことないけどね。あるいは思い切って京都鴨川とか??