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「わたし」と「社会」のつなぎかた | シブヤ大学18周年特別授業、勝手振り返り

シブヤ大学18周年特別授業『哲学とデザインで探る「わたし」と「社会」のつなぎかた』というイベントに参加してきました。

www.shibuya-univ.net

 

スピーカーが豪華! 話を聞きたい人ばかり! ってことで期待大で行ってきたのですが、予想とはちょっと違う方向ではあったものの、しっかり楽しめました。

(違う方向というのは、「哲学とデザインで」探っているようにはあたしには思えなかったってこと。でもそれはそれでよしで、最後にモデレーターをされていた坂口緑さんが「哲学を疑う哲学者とデザインを疑うデザイナーとのつながりかたの話でとてもよかった」と言っていたのに深く同意。)

 

で、ここで書いておきたいのは、タイトルでもある『「わたし」と「社会」のつなぎかた』というテーマ設定について。

端的に書けば、「つないだ方がいい」、「つながなきゃ」あるいは「つながらなきゃ」が前提であるような感じがするタイトルだな、と思ったし、企画者のシブ大 大澤学長の意識にはやっぱりそれがあったんじゃないかな。

あたしはそれに違和感があって。結論じみたことを言えば、「結果としてつながる」のであって、もっと「中動的」というか、「流れ」みたいなものなんじゃないのかな? と最近は思っていて。

 

イベントのわかりやすいレポートは近いうちにきっとオフィシャルの形で出ると思うので、それを知りたい人はもうしばらく待ちましょう。

というわけで、ここからは完全に「脳内変換」された「極私的覚え書き」です。

 

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谷川嘉浩さんは近著の人生のレールを外れる衝動のみつけかた』をベースに話されていて、「自分の衝動を大切にせよ」という話をしていた(と思う)。

そして「合理性や言語化できるものに引きずられ過ぎるな」とも。うん、同意。

www.chikumashobo.co.jp

 

そして富樫重太さんが話していた「自分(たち)の内側から出てくるものを小さくちょこちょこと発露させながら発酵させて、そこから溢れ出たものが(自然と?)外につながっていく。それでいいのでは?」という話(あたしにはそう聞こえた)が、まさにドンピシャで。

結局、自分(たち)がやりたいことをやるのに、なにか障害になるものがあれば人はそれを「取り除きたい」と思うのではないか。

その障害が自分の「外」にあるとき、それにアプローチしようとすることが「社会とつながる」ということなんじゃないだろうか。

 

そして自分(たち)の「やりたいこと」がなんなのかって、どんどんわかりづらくなっている気がしていて。

そんな「社会」においては、「自分がやりたくないことの本質」がなんなのかを深掘りすることが、谷川さん言うところの「自分の衝動を大切にすること」の、逆方面からのアプローチなんじゃないかな? とも。

 

もう一つ。富樫さんの話を聞きながら思ったことを。

フィンランドの「勝手サウナ」が、行政から怒られたり取り壊しを受けながらも、結局は行政支援のもと運用されるようになった話(詳しくは富樫さんたち3人による一般社団法人公共とデザイン著の『クリエイティブデモクラシー 「わたし」から社会を変える、ソーシャルイノベーションのはじめかた』に書かれているのでそちらで)って、やりたいことをやる人たちをdisったり野次ったりするのではなく、「いいじゃんそれ」って応援する人たちがいて実現するものだよなあって思いました。

 

モデレーションが『多文化化するデンマークの社会統合: 生涯学習が果たす役割とその可能性』を上梓したばかりの坂口緑さんだったからというわけではないですが、古くはクリスチャニアの存在を行政も市民も認めたり、最近ではデモクラシー・ガレージを民間主導で設立したりという、デンマーク(や北欧)のDIY文化に意識が向かうのでした。

www.kadensha.net

 

フィンランドのサウナやデンマークでのクリスチャニアなど、市民プロジェクトが行政と上手にコラボレーションできるのは、「周囲の支援する力」が大きく関係しているんじゃないだろうか。

「やりたいことがある人がやれる環境」をみんなで作っているのではないか。

 

翻って日本。

「やりたいことがある人がやろうとする、あるいはやり始める」と、それを応援するでも見守るでもなく揶揄ったりdisったりする人が多い。

それを学習しているから、やりたくてもやらない。

それを繰り返しているから、やりたいことがわからなくなる。やりたいことをやっている人が癇に障る。「自分は我慢しているのに。報われていないのに。なんだこいつ」って。

(本人が意識していないことも多いのかも、だけど)バッシングでもしなきゃやってられないよって…。それを見て「ああ真似していいんだ」って。

 

「自分(たち)のためになにかを変えたい」と思った人が、ある程度の安心感を持ってアクションできる社会に近づくには、遠回りのようだけど、やっぱり「結果はともかくやる人が讃えられる、あるいは本当は興味がないのなら放っておく」社会なんじゃないだろうか。

富樫さんが最後に話した「他の人のモヤモヤの発露を大切にするのも案外大事なんじゃないか。それを生かせる器を育てていくという方向性もあると思う」って言葉が強く印象に残っている。

大事にする方法って、積極的なものばかりじゃない気がしていて。そうっと放っておくというのも一つの大事にするやり方なんじゃないかな。

 

いろいろと広がっていくな…そろそろ止めよう。

大澤悠季シブヤ大学学長様、とても良い機会をありがとうございました!

 

あ、最後にもう一つ、これは書いておきたい。

「社会」ってなんだろう? 「わたし」以外のすべてが社会じゃないのかな?