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スコットランド70日間滞在記その8 | 結論 - 試してみて分かったこと

スコットランド滞在記シリーズも今回で最終回。

「おれは今でも海外生活をしたいと本当に思っているのか?」を確かめた結果と、そこから見えてきた自分の未来についてまとめてみます。

 

■ 結論1 | どこにいても「そのままの自分」で生活できる

「海外で暮らしたい」というバクッとした「望み」。

それに対して、もっと解像度を上げて、海外暮らしに何を求めているのかをはっきり理解できたことが、今回のエディンバラ暮らしの最大の成果だと思っています。

 

おれが海外で暮らしたい1番の理由は「そのままの自分」で生きていたいから。

そこでの日々は「自分が何者か」を周囲に示す必要を感じない日常。20代後半で暮らしたクライストチャーチバンクーバーで、おれはその心地よさを強く感じていました。

だから、海外で暮らせば、心地よく自分らしく暮らせるんじゃないかと思っていたのですが、今回のエディンバラでの2カ月強の暮らしで、自分がその「心地よさ」をどこから感じていたのかを、かなりはっきり理解することができた気がします。

 

結論を言えば、「どこで暮らしているか」と「そのままの自分でいられる」ことには、直接的な関係がないことがわかったのです。

自分の心持ち次第で、どこにいようともある程度は「そのままの自分」でいられるようになったということ。そして自分らしくいることが与えてくれる心地よさは、どこで暮らしていても変わるものではありませんでした。

 

■ 結論2 | 何者か何者でないかはご自由にどうぞ

若かりし頃のおれは、周囲に「何者かだと思われなければならない」と思い込んでいて、「自分が何者か」をアピールする機会をいつも無意識に探していた気がします。

そして海外暮らしを体験して、「ここでは何者かだと思われなくてもいいんだ」と感じました。

 

でも、日本に帰ってくると、また再び「何者か」であると証明しようとした時期が続いていました。

…しかしいつ頃からか、「何者か」であるかどうかは、本当はどちらでもよくなっていたのです。いや、正確には、「何者か」であるかどうかを決めるのは周囲であって、おれが気にすべき問題ではないと、心から思えるようになったのです。

自分自身でいること。何者かであること(ないこと)。何者かだと思われること(思われないこと)。——周囲がおれを「何者か」「何者でもないか」のどちらに捉えようとも、おれはおれでしかない。それが伝わっていようといまいと、それが変わることもないから。

 

■ 結論3 | 何者であろうとおれは「表現者」だ

「何者か」どうかはともかく、おれは自分を「表現者のひとり」だと心から信じるようになりました。表現者とは、表現の上手い下手ではなく、表現せずにはいられない人間だということ。

言葉を使って思ったことや感じることを表現することが特に好きで得意だけれど、それだけじゃなくて。もっと色や音や動きも使って、湧き上がってくるものをなんらかの形にしたい。表したい。

それがどんな形でであれ、表現しないままにしておくことはできないのです。

(と書くと、なんだかかっこいい感じだけど、それは単なる鼻歌だったり、反抗的な態度だったりします。そして別に、オリジナリティーにこだわる気もないのです。)

 

こうして、自分の根幹に「表現者」としての自分が強く存在していることをはっきり自己認識できるようになったことは、自分がどこにいようと、何をしていようといまいと、「そのままの自分」でいられることに大きく関係している気がします。

 

■ 結論4 | 得意な文章でまだまだ勝負するために

昔のおれは「手段は問わず、なんでもいいから海外で生活したい」と思っていました。翻訳だろうが畳職人だろうが、蕎麦屋だろうがドライバーだろうが、海外で暮らせるならなんでも良かった。

 

pachi.hatenablog.com

 

でも、今はそう思えなくなりました。表現者であることを生活の中心に据えたいと思っていて、できるなら、得意な取材と文章を生活の糧として暮らしたい。なぜなら、それが、おれが幸福感を味わいながら暮らすための鍵を握っているとわかったから。

 

そしておれは、圧倒的に英語でよりも日本語での方がいい文章を書けます。いつか、英語でも日本語と同じくらいいい文章を書ける日が来るかもしれないけれど、でもそれよりも、おれは自分の日本語の文章力を磨き、もっともっといいものを書き、表現したいのです。

日本語文章を磨き生きていくのであれば、それは海外ではなく、日本の方が良さそうです。そして生活費という観点からも、これだけ日本円が安くなった世界では、日本円で稼いで海外で暮らすことは厳しいというのが現実です。

 

■ 最後に | 試しに行ってよかった

ここまでいろいろと並べてきましたが、「海外で生活する」ことの意味は、「そのままの自分」で生活したいおれにとってこの20数年間で大きく変化していました。

今後、もしかしたら、海外で生活することになるかもしれません。でも、もはやおれにとっては、「海外で暮らす」は目的ではなくなりました。

「暮らしてもいいし、暮らさなくてもいい」——たくさんある選択肢のうちの一つでしかなくなりました。

 

やっぱり、試しに行ってよかった。スッキリ。試さなきゃわからないことばかりだったよ。