「パチも、もう30代半ばも過ぎたんだし、就職した方がいいって絶対。派遣の仕事は辞めてうちの会社に就職しなよ。パチにやって欲しい仕事があるんだ。」
たしかに、こんないい条件でおれを誘ってくれる会社なんて、金輪際もう2度とないだろう。なんといっても、おれはこれまで一度も就職したことがないヤツなんだから——。
そのときのおれは、日本IBMというテクノロジー企業で派遣社員として働いていた。
そしておれは、36歳で生まれて初めて就職した。日本アイ・ビー・エムとも取引のあるインターネット関連の会社で、Webプランナーの仕事だった。
その翌年、おれはその会社を辞めて日本IBMに転職した。今度は派遣ではなく一般社員としてだった。
派遣社員として5年働き、その後も取引先だった会社だ。IBMの文化は理解していた。それに「あたしの下で働きなさいよ。あんたみたいな暴れん坊が必要なの」と上司に声をかけられての転職だったから、おれはおれらしくやればいいってことだ。
それにそもそも、周りは優秀なエリートばかり。おれが彼ら彼女らと同じようなことをやろうとしたって、できることなんてたかが知れている。
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そんな風にスタートしたIBMでの仕事は、もちろん大変なところもあったけれど、やればやるほどおもしろくなっていった。
そして気がつけば、海外暮らしのことを考えることがどんどん減っていった。
パートナーとはときどき会話するものの「きっといつか、そのうちチャンスが来たら…」と口にはするだけで、具体的には何も行動していなかった。口先だけだ。
IBMに転職して10年が経ったころ、一度だけ海外転勤的な話が出たことがあった。
アジア某国でのプロジェクトマネージャー的な仕事。得意な仕事ではない。頑張ればどうにかやれそうな気はするけれど…積極的になれなかった。不安も大きかった。
結局、話はまとまらなかった。ほっとしている自分もいた。
その後、IBMを辞めてデンマークの学校に入学することを真剣に考えた時期もあった。
でも結局、自分のやりたい仕事をできる環境をIBMで手に入れることができたので、そのまま日本に残ることを選んだ。
それからさらに数年。
コロナ禍でしばらく旅行ですら海外に行けなかったこともあり、おれは海外に飢えていた。そして考えていた。「一体いつになったら、おれは海外暮らしをしようとするのだ?」と。
あれはなんだったのか。
あれほど強く想っていたのに、願望をただただ口にしていただけだったのか。このまま若かりし頃の思い出話にするのか。
「いつかまた」って言いながら、おれは逃げているんじゃないのか。あるいはすがりついているだけなんじゃないのか——。今も昔も口先だけか。
「とにかくもう一度海外暮らしをしよう。」
自分の気持ちをもう一度ちゃんとたしかめてみよう。短くてもいい。暮らしてみよう。