Collaboration Energizer | #混ぜなきゃ危険 | 八木橋パチ

コラボレーション・エナジャイザーとは、コラボレーションの場を作り、場のエネルギーを高め、何かが生みだされることを支援する人

スコットランド70日間滞在記その2 | 「いつかまた」と15年が過ぎていた

「パチも、もう30代半ばも過ぎたんだし、就職した方がいいって絶対。派遣の仕事は辞めてうちの会社に就職しなよ。パチにやって欲しい仕事があるんだ。」

たしかに、こんないい条件でおれを誘ってくれる会社なんて、金輪際もう2度とないだろう。なんといっても、おれはこれまで一度も就職したことがないヤツなんだから——。

 

pachi.hatenablog.com

 

そのときのおれは、日本IBMというテクノロジー企業で派遣社員として働いていた。

そしておれは、36歳で生まれて初めて就職した。日本アイ・ビー・エムとも取引のあるインターネット関連の会社で、Webプランナーの仕事だった。

その翌年、おれはその会社を辞めて日本IBMに転職した。今度は派遣ではなく一般社員としてだった。

 

派遣社員として5年働き、その後も取引先だった会社だ。IBMの文化は理解していた。それに「あたしの下で働きなさいよ。あんたみたいな暴れん坊が必要なの」と上司に声をかけられての転職だったから、おれはおれらしくやればいいってことだ。

それにそもそも、周りは優秀なエリートばかり。おれが彼ら彼女らと同じようなことをやろうとしたって、できることなんてたかが知れている。

SECIモデル(SECIプロセス)で世界的に著名な野中郁次郎氏を仲間たちと囲んで

 

そんな風にスタートしたIBMでの仕事は、もちろん大変なところもあったけれど、やればやるほどおもしろくなっていった。

そして気がつけば、海外暮らしのことを考えることがどんどん減っていった。

パートナーとはときどき会話するものの「きっといつか、そのうちチャンスが来たら…」と口にはするだけで、具体的には何も行動していなかった。口先だけだ。

IBMに転職して10年が経ったころ、一度だけ海外転勤的な話が出たことがあった。

アジア某国でのプロジェクトマネージャー的な仕事。得意な仕事ではない。頑張ればどうにかやれそうな気はするけれど…積極的になれなかった。不安も大きかった。

結局、話はまとまらなかった。ほっとしている自分もいた。

 

その後、IBMを辞めてデンマークの学校に入学することを真剣に考えた時期もあった。

でも結局、自分のやりたい仕事をできる環境をIBMで手に入れることができたので、そのまま日本に残ることを選んだ。

 

それからさらに数年。

コロナ禍でしばらく旅行ですら海外に行けなかったこともあり、おれは海外に飢えていた。そして考えていた。「一体いつになったら、おれは海外暮らしをしようとするのだ?」と。

 

あれはなんだったのか。

あれほど強く想っていたのに、願望をただただ口にしていただけだったのか。このまま若かりし頃の思い出話にするのか。

「いつかまた」って言いながら、おれは逃げているんじゃないのか。あるいはすがりついているだけなんじゃないのか——。今も昔も口先だけか。

 

「とにかくもう一度海外暮らしをしよう。」

自分の気持ちをもう一度ちゃんとたしかめてみよう。短くてもいい。暮らしてみよう。