Collaboration Energizer | #混ぜなきゃ危険 | 八木橋パチ

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ビッグイシューの『コロナ禍で考えた“民主主義”』で考えた

昨日までの7日間、ビッグイシュー406号の特集『コロナ禍で考えた“民主主義”』に掲載されている7つの寄稿を毎日1本取り上げるnoteを書いていました。

 

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さっき、一通り自分が書いたものを読み返してみたんだけど…なかなか言いたいポイントが分かりにくいものもありますね。おれ自身にははっきりしているんだけどね(書いた人なんだから当然か)。

でもまあ、自画自賛するけど、わりかしいいポイントを突いているものも少なくないんじゃなかろうか?

というわけで、「コレだけでも読んで欲しいなぁ」っていう順番に7本を並べてみました。書かれている内容紹介と共に。

 

でも、みんなが「これについてもっと深掘りしてみたいなぁ」とか「一番考えさせられるなぁ」って思うのがどれなのかにも興味あります。感想お待ちしております!!

 

  多くが孤独を感じ、問題を自分だけで抱え込んでいる。それは「自分の声は政治に反映されていない。聞いてもらえていない。それなのになぜ人の話を聞かなければならないのか。」という不信の蓄積の結果だ。

・ 民主主義を取り戻すためには、平等と、聞いてもらえるという安心が必要だ。まずは言葉への信頼回復から始めよう。

 

<社会が自分のことを考えてくれないのに、なぜ自分は社会のことを考えなければならないのか> -- この言葉を自分ごとと感じる人が増え続けているのではないか。

おれが民主主義を尊重し応援しているのは、自分が自由でありたいから。自分の自由を守るためには、自分の自由についての考えを聞いてもらう必要があるし、それがどこかみんなの自由と違っても、尊重してもらう必要があるから。

 

・ 台湾のパンデミック抑制成功の根底にあるのは徹底した透明化と対話的な姿勢。

・ 民主主義の本質は「個人主義」と「対話」の尊重にある。失敗を次に活かそうとするなら、優れた隣人に学ぶべきだろう。

 

ひまわり学生運動以降の台湾の変化が、とても羨ましい。

「アジアの他国に教えを乞うなんて。あんたは一体何をバカなことを言ってるんだ。歴史をちゃんと学んだほうがいい」なんてことを言い出しそう…。

 

・ <民主主義は「統治」の手段ではなく「参加」を通じた「自治」の手段> from『戦後民主主義 現代日本を創った思想と文化』。

・ 家から出るな。会社に来るな。人としゃべるな。ボランティアするな。 -- コロナは人から平等と社会参加を奪った。やりがいを感じていた仕事や活動を奪われた私たちは、どうやって再び「この社会につながっている」という感覚を取り戻せば良いのだろうか?

 

<民主主義は「管理」の手段ではなく「参加」を通じた「自由」を実現する手段>

正論(あるいは正論っぽく聞こえるもの)を声高にぶん回す社会は、分断と対立を深めていく…。

 

・ 「国民」という言葉は「自分たちは含まれないのでは?」と在日外国人に不安を感じさせる言葉だ。

・ 「国民」という言葉は、やはり排他的な意味合いを持っている。

・ 社会の担い手を表す「国民」に代わる言葉をあなたも考えてみませんか?

 

改めて市民という言葉を見直し、そこに多くの意義を与えていくことで再生できたら…と思うのだが、どうだろう?

市民という言葉に、まだここには存在していない、この地に暮らす未来の人びとも含めたい。

 

・ 昨年3月の一斉休校の後、全国の教育委員会は授業の遅れを取り戻すことに必死になっている。だが、子どもたちから取り上げられた「文化的な最低限度の生活」への救済措置はどうだろうか?

・ コロナはその国、社会、民族の弱い点をつく。「社会包摂」という視点の弱さ、そしてそこへの対応が、日本の今後の社会課題だ。

 

子どもの教育に関して「貧富の差が教育の差につながることは仕方がないこと」という考えを受け入れる親が、ここ数年でどんどん増えているらしい…。

日本が「カイゼン」だったり「モノマネ」だったり、「海外のいいとこどりが上手な国」だったのは過去の話らしい。

 

・ オンライン社会活動は迅速さと顕名性に極端に左右され、知的資源や人脈を持つ人の言葉が無批判に受け入れられる状況につながってはいないか? 一人ひとりが自律的に社会問題を考える過程や、熟議や相互批判は妨げられていないだろうか?

・ 声を上げる過程をも平等で民主的なものとしていくこと。そしてこれからの社会運動と民主主義に求められているのは、流れに棹差す力と議論を怖がらない勇気ではないだろうか。

 

「発言力を持つこと」を手段化することには、危険性がつきまとうのではないか。なんために発言力を持ちたいのか。そしてそもそも発言力をどう活かすのか。

発言力の民主化を。

 

・ 民主主義は多数決の論理で成立しているのではない。広く意見を聞き、少数でも大切な意見があればそれを拾い上げ、辛抱強くみんなの合意を取るのは本来のあり方。「選挙で勝った = 国民の代表」ではない。民主主義は権力の濫用を防ぐためにある。

・ 人間が社会を作るには「移動・集まる・対話」の3つの自由が必要だということ。偽政者に対抗するには集まる必要もあるが、デモは武力で封じられ、SNSでは言葉の暴力が飛び交っている。

 

「集まること」って示威的ですよね。そして実際、集まれば場にエネルギーが渦まきます。

『異なる意見を熟議してまとめるためには実際に集まって対話することが不可欠』って、なんとなく「その通り」って言いたくなる言葉だけど、本当だろうか? 疑ってみない?

 

Happy Collaboration!