傲慢なおれは生きのびるためにずるく逃げる
「おまえはずるい」
「おまえは卑怯だ」
こんなのは個人差だ。でもおれには後者の方がずっと鋭く胸に刺さる。卑怯者呼ばわりされるのは許し難い…いや、呼ぶのは相手の勝手だが、それをおれが受け入れるかどうかも自由だ。
おれは卑怯者なんかじゃない。ずるいが卑怯じゃない。
ずるさと卑怯さの違いは何か、実はおれにもはっきり分からない。考えてはみたが、はっきりしなかった。
ずるは、状況の中で意識的にそれを選択すること。「おれはこれを」と、皆にフェアではないかもしれないが、そのときその場において誰かの不利益を「まあそういうこともある…しょうがない」と目をつむって選ぶことだ。
卑怯はもっと…なんというか、底から浮かび上がってくる根源的なものというか…。自分の利益を、「優先して当然のもの」としてみなす感じだ。
「誰かに不利益をもたらす? そりゃそうさ! それがどうした?」と。
ようするに、悪意が前に来るかどうか? …いや、それじゃない。なんか違う気がする。うーん、やっぱりうまく説明できない。
でも、はっきりさせられなくて良いのかもしれない。というか、はっきりさせるのは自身を危険に晒させる行為なのかもしれない。なぜなら、おれは都合よく、自分の過去の行動を「ずるかった」としているから。そして「ずるいおれ」は自認して受け止められるけれど、「卑怯なおれ」は認められないし、受け入れられないから。
あるずるい男の話を聞いた。そのずるい男を愛している人がいて、ずるさを許していた。
おれは男に軽い嫉妬心を覚えた。「そんなに愛されるなんて」って。羨ましい。
ある卑怯な男の話を聞いた。その卑怯な男を愛している人がいて、卑怯さを許していた。
おれは男に軽い怒りを覚えた。卑怯さすら許す人を、まだ都合よく利用するのかと。
おそらく、これがおれの思う卑怯さなのだ。
ずるくてもいい。しかたかない。でも、卑怯者にはなりたくない。卑怯者になるくらいなら死んだ方がマシだ。
「その人は、自分がどうにも許せなくて、自殺したんだ。ダメな自分を直視しながら生きるのは、あまりに辛すぎたんだよ。」
「でも、死んじゃダメだ。ダメさを直視しない方法だってあるし、許さないままで生きる方法だって見つけられるはずさ。死んじゃダメだ。おれは認めない。」
「自殺した人が最後に下した判断にまで、君はダメ出しをするのかい? 君は一体どこまで傲慢なんだ。せめて、最後の最後くらいその判断を尊重してあげようとは思わないのか?」
「…でもダメなんだよ、死んじゃ。逃げ道は絶対にあるんだ。自殺した人間はそれで終わりかもしれない。でも、それは苦しみを周囲に押しやっただけなんだ。新たに苦しみを生み出すんだ。それはずるいよ。」
「そうかもしれない。ずるいかもしれない。でも、それは卑怯なことかな?」
「…卑怯ではない。ずるいだけだ。でも…死んでほしくないんだ。ダメな自分から逃げるための自殺を認めたら、誰だって…。…自殺はダメなんだよ。死んでしまった後には届かないし、その人を悪くは言いたくないけれど、でも自殺しちゃダメだ。卑怯ではないけど…ずる過ぎるよ。」
「ずるさも許さないんだね。」
逃げてほしい。生きのびてほしい。
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ。
誰かを傷つけてしまうとしても、自分を傷つけるとしても、ずるくなって逃げろ。逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ。
卑怯にならないで。それはずっと追っかけてくるから。でも逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ。