引越しとは心の住処を変えることでもある(のかもしれない)。
前回の引越しからだいたい4年、特別な理由はないんだけど、引越しすることにしました。
(強いて言えば、更新料と礼金っていう賃貸システムに納得行かないまま住んでいるのがちょっと嫌になってきたのと、4年経っても今住んでいるところに愛着が湧いてこないのが理由、かな。)
で、只今絶賛引越し準備中です。
CDも本も洋服も、ほとんど抵抗なく捨てるなり売りさばくなりばんばん処分しました。
いやびっくり。心理的な痛みとか抵抗すごく低くなってるわ!
…これってひょっとして、自分の中の<モノ執着>が減っていることの現れ?
<前回の引越しの時ってこんなじゃなかったよなぁ。どんな感じだったっけ?>と我ながら疑問に思ったので、4年前に書いたブログ記事を読んでみました。
フットワークと所有欲と思い出補正
■ 移動の自由を失うことは、魂の自由を失うこと ■ 単なるモノじゃない。アイデンティティの象徴だ
などなど、やっぱり強い心理的抵抗があったことが書かれていました。
ただ、4年前の引越しの時は、バイクとベースギターという、どこか<自分自身を投影するようなものたち>との別離が含まれていたから、大変だったんだろうな、と…。
ありたい自分の姿や近い未来の姿に重なるモノたちだったからこそ、ゴチャゴチャと葛藤していたんだと思います。
とは言え、今回もCDと本のおよそ9割を処分しました。
特にCDは、4年前の引越しではまったく手をつけず、結局全部そのまま持ってきていました。
それが今回は、妻の<ほとんどCDで音楽聴いていないじゃん>という言葉に、<言われてみればその通り、もういいか。ほとんどネット経由でしか聞いてないな>とすぐに思えたのです(後から<いやちょっと待てよ>とは思ったものの)。
物質的なモノに対する所有欲が減退した のか…
音楽が生活の中心だった過去の自分に対する捕らわれがなくなった のか…
使用しないモノを携えることに意味を感じない合理性が上がった のか…
自分の変化が一体どこから来ているのか、自分でもはっきり分かりません。
おそらくは、そのすべての少しずつで、それ以外のいろいろも混ざっているのでしょう。
そして今のこの感じは、前回の引越しでバイクとベースを手放したところから、一本の線でつながっているのです。
誰にも頼ることなく、自分の意思でいつでも自由にどこかへ向かえることの象徴としてのバイク。 自分の感情や意思を表出化させ、それを誰かに伝えるための道具としてのベース。
これを手放す判断をして、それに対して大した問題も感じなかった4年間が今の自分なのです。
ちょっと大げさに書けば、あの時、私は自分の心の中の住処に、<経済合理性>や<利便性>のためのスペースを大きく取り、<ノスタルジア>に対して<いつまでもそんなに大きな顔してんなよ>と言い放ち、それを正当化するように生きてきたということなのかもしれません。
ただ、それもまたリセットしたくなっている自分を感じています。
引越しとは、心の住処を変えることでもある(のかもしれない)。
ただ、今回の引越しでは、本当に<モノ執着>が少し減っていることが現れてきている気もやっぱりするんです。
ここのところ、自分がぼんやりと意識していた自分にとってちょうどいい<有形資産と無形資産のバランス>が見えてきている気がします。
また、自分にとってちょうどいい<何者かになりたい自分とイマココの自分のバランス>も、はっきりして来たような気がしています。
近いうちに、そのあたりについても文章にしてみたいな。
Happy Collaboration!