多分また、数年後にウロウロしているだろう俺へ。
自信なんて、言うほど簡単に増えやしないし持てるもんじゃない。
なのにどうして、減ったり消えたりしたって感じるんだろう。思うんだろう。
自信が「ものごころついてからこれまでに、何年も何年もかけて育ててきたもの」なら、わずか1週間やひと月で実際に急増したり激減するのはおかしい。
たとえば、「何十年もかけて育った木」のようなものなら、1度や2度のできごとくらいでそんなに伸びたり縮んだり、膨らんだり細くなったりしないでしょう。
「ここ1週間で急速に蕾が花開いた」「葉が枯れて落葉した」 — それは木が繰り返すサイクルの一つの期間をクローズアップしているだけ。 木の幹や木全体を見たらたいして変わっていない。
「ボキッと折られれしまった…」 — まあときどきイタズラに手折られることもあるかも。 でもそんなの、手折れる程度の小枝かひと枝に過ぎない。
「ひと枝じゃなくバッサリ切り落とされてしまったんだ…」 — 本当かな? クローズアップし過ぎているだけじゃないかな。あんまり近づき過ぎると、小さな部分が視界を埋め尽くしてしまうもの。ちょっとあっちの離れたところから見てみたら?
「もうずっと前から木が霞んでよく見えないまま…」 — 多分、今は梅雨の時期かなんかなんじゃないかな。 まあそのうち雨は止むし、木はどれだけ濡れても紙みたいに溶けることはないから心配いらない。
自信がひとつひとつの成功の積み重ねの上にでできているなら、ひとつふたつの失敗で無くなるわけない。
これまで山ほど繰り返してきた失敗と、今回の失敗の何が違うというのか。
だからもし、自信が急速に増えたり減ったり、持ったり無くしたりしているなら — その変化は「自信」の側にあるんじゃなくて「自分」の側にある。
だからもし、自信がぐらぐら揺れてるように感じたり、急速に萎んでいくように見えたら — それはきっと「俺」の視力の側の問題だ。乱視か老眼か。メガネを新調しよう。何ならレーシック手術をもう一度。 …あるいはもう少しシリアスかも…白内障とか緑内障とか。それでもきちんと治療すればたいていは治るもんだ。
数年に一度、心配事がいくつか重なったり、失敗が立て続けに来たりすると、自信をなくしてズーンと落ち込むことがあります。ここ一月ほどそんな状態が続いていました。
前回はいつだったのかなぁ。3年くらい前だったような気がします。
そして、落ち込んでいたり悩んでいたりする間、いくつかの考えの間を行ったり来たりします。
どこにも行き着かないことを、行き着きようもないやり方で、行き着こうという意思もろくに持たないままにうろうろ。うろうろ。
そろそろそんなうろうろともおさらばしたいな、って思って。 だっていつもほとんど似たような分析モードに入るパターンだから(もうそろそろ飽きようよ俺):
「そもそもダウンしていない時期と今と何が違うのだろう?」 → 「普段の自分には”根拠はないが確固とした自信”がある。今はなぜない?」 →→ 「そもそも最初からなかった根拠を探していないか?」 →→→ 「これまでどんなにうまくいかないことがあっても俺は俺としてやってきたじゃないか!」 →→→→ 「俺以上に俺である能力を持っているヤツはいないんだから、俺の好きな俺であり続けよう」
…こうやって書くと、自分のすごい単純ぶりが恥ずかしい…。
でも今回、ちょうど縁あって「幸福学」に関する話を聞いたり、ちょっとだけ「マインドフルネス」のトレーニングをしたり本を読んだりしていたことが良い方向につながっている気がします。
このエントリーを書こうと思ったのも、ちょうど読んでいた『サーチ・インサイド・ユアセルフ』の中に書かれていた下記の言葉に深く納得したからです。
自分の失敗モードと復元モードという私が機能する上で重要な2つのモードを理解すれば自信につながるのだ(…)自分の心や行動や能力について両方のモードを理解していればこれほど多く欠点を抱えていようとこんな外見をしていようと私は自分に自信を持つことができる。持続可能な自信に必要なこの種の深い自己認識や自分に対する赤裸々なまでの正直さを保つというのは自分に対して隠すものが一切ないことを意味する。
最後に、またいつか、多分数年後に自信をなくしてウロウロしている俺へ。
あーもったいないもったいない! 過去を運転席に座らせるな。理屈や因果関係探しにナビをさせるな。完璧さの追求という不幸への高速道路には乗るな。
せっかく目の前に面白いものがあっても、美しいものがあっても、美味しいものがあっても、楽しいものがあっても、明日の心配に心を奪われてちゃ台無しだよ、見逃しちゃうよ。「今ここ自分」を味わおう、楽しもう。
自分が動き出すと楽しくなってくるタイプだってこと、忘れていない?