Collaboration Energizer | #混ぜなきゃ危険 | 八木橋パチ

コラボレーション・エナジャイザーとは、コラボレーションの場を作り、場のエネルギーを高め、何かが生みだされることを支援する人

コミュニケーションへのスタンスとスタイル

1週間経ってもやっぱりもぞもぞしていて「書いてくれよ」って声が聴こえてきてる。

というわけで。

 

「視覚身体言語とコミュニケーション」という、インタープリターの和田夏実さん[めとてラボ]がリードされたワークショップに参加してきました。
以下、「だれもが文化でつながるサマーセッション2023」@東京都美術館のオフィシャルプログラムに書かれているワークショップの説明です。

和田夏実さんを中心にめとてラボのメンバーが実施する、感覚と身体性の再構築を考えるワークショップ。
「つたえる、うけとる、つたえあう」ことについて新たなコミュニケーションの在り方をみつけていく。手話に代表される視覚身体言語と、話すことを中心とする音声(書記)言語について知り、コミュニケーションついて考えていく。

 

「どうやらおれのコミュニケーションへのスタンスとスタイルは、特異性が結構高いみたいだな。」

2時間の間に3回ほどそう思う場面があった。ここではそれについて書いておきたい。

 

「何が」よりも「何を」

最初にそれを感じたのは、「どうにでも受け取れる」ような写真を見たときの自分の反応。

イメージとしてはこんな感じの写真。

さっき自分でテキトーに作ったのに、今、「何を伝えようとしているのだろう?」と考えはじめちゃったよ…!

 

ひと通り眺めたあとは、「何を伝えようとしているのだろう?」と、すぐに探しに行ってしまうのだ。

そして関連性やメッセージ性(っぽい)ものを見つけると、そこから「なぜこの表現を取ったのか」、「どうしてあれではなくこれなのか」を想像し、そこから「自分なら何を変えるか」にどんどんと独りでに頭が進んでいく。

 

ちなみに、数日後に「しゃべりながら観る(白鳥流・会話型美術鑑賞)ワークショップ」にも参加したのだが、このときも1時間のワークショップの間に2度ほど、脳内でストーリーがばばば〜っと展開していって、意識しないと周囲の話よりもそっちに意識が向いてしまいそうになった。

どうやら、みんなはそうでもないようだ。

 

「説明」よりも「表現」

次が、相手に見えないように、自分が手に持っているモノを説明して、それをデッサンしてもらうというペアワーク。

相手はデッサンするのだから、「木目調の三角形の立方体で、長辺が15センチくらいで短辺が7センチと5センチくらいで…」と説明的な描写をすればいいのだろうけれど、あまりそれをしたくない。

できることなら、それを触ったときのしっくりくる感じであったり、角のところをちょっと強めに押し当てたときの鈍い痛さだったりを話したくなってしまうのだ。

 

伝えたがりっぷり | おれを構成しているモノ

最後がグループワークで、細かい説明は一切なしで「あなたの世界を3つの言葉で書いてください」と言われ、それを見た数人からの質問に10分ほど答えていくというもの。

おれが書いたのは「文字」「音楽」「好きな人」。感覚としてはおれを構成しているモノとして頭に浮かんだ3つだった。

そこから周囲の人からの質問に答えていくんだけど、質問されればされるほど自分の中で「伝えたい」ことが明確になっていく。そして「芯に触れられるチャンス!」みたいな質問がくると、自分の中で「これだけは分かって欲しい」みたいな熱の入った答えを返してしまう。

自分が「伝えたがり」なのは知っていたけれど、思っていた以上の伝えたがりっぷりだった。

こちらは1人の参加者の方からいただいた、おれインタビューを元に書いていただいたデッサン。嬉しい。

 


 

終了後、参加者にこちらの冊子が配られた。

 

これがすごくおもしろくて、自分のコミュニケーションへのスタンスとスタイルについて、さらにいろいろと考えを巡らさせてくれるモノだった。

3カ所ほど引用を。

 

あなたの内言*の世界は、あなたが構築する世界認識や記憶の引き出し方。そこには一体どんな言葉やイメージがあるのでしょうか。

*内言…音声を伴わない自分自身の心の中で思考のための道具としてもちいる言語。対比として、伝達の道具、他者と会話するための社会的言語としての外言がある。

思考のための言語・内言語

 

通訳をするとき、その世界独自のルール・文脈を理解しなくては、意図や言葉の重み自体を伝えることはできません。新しい言葉はその分野にどんな発見をもたらしたのか、看護や保育、法律や技術、アートなど、各分野が重ねてきた文脈とは一体何か。そこに飛び込み、複合的な話者として通訳者自身も自分の世界を広げることが、通訳の可能性を広げていくことにつながると感じます。

あなたを取り巻く世界の言葉

 

言葉にその人の感情や想いが乗っかった瞬間、それは熱を持ちます。しかし、その熱々の感覚をつたえようとしても、通訳という別の身体を介してしまった瞬間、さぁっと冷えてしまう。それはまるで熱々の唐揚げが冷たくて硬くなってしまったときのボソボソさ。

温度について

 

おれは英語と日本語の通訳や翻訳をやることがあるんだけど、ワークショップの通訳が一番好きで、そして得意だと思っている。

それは、ファシリテーターと自分が同期して、自分の言葉のようにファシリテーターの言葉が出てきているように感じる瞬間が、わりと頻繁にあるから。

細かく見ていけば実際にはたくさんのギャップがあるのだろうけど、それでもファシリテーターとおれの熱が混ざり合って、「同じ芯」を掴みながら走っているような感覚になるのだ。

昔、バンドマン時代に何度かライブ中に感じた「ああ、今完全に1つの音になってるじゃん」だったり、スタジオでセッション中に感じた「お前の言わんとすること分かったぜ」みたいな、その感覚にとても近い気がする。

 

それからもう一つ、おれが自分なりにうまくできていると自画自賛しているのが取材やインタビュー記事の作成なんだけど、こちらもおれの中では翻訳をしている感じにかなり近い。

英語の文章って、一文単位でそのまま日本語にしていっても、読み手からするとなかなかピンとこないものも多くって、おれの場合は複数の文章をまとめてから訳したり、場合によってはパラグラフの位置ごと変えてしまうことも少なくない(なので、おれは「翻訳」とは呼ばず「ローカライゼーション」と呼ぶことが多い)。

 

取材やインタビューも同じで、一連の会話の中で相手から出てくる言葉やストーリーは、そのままの順番や組み合わせで書く必要はなく、その人の「熱」と、こちらが「前面に出したいモノ」を組み合わせて、一つの読み物としてしっくりするように造形していく。

そしてできるだけ、相手がこれまでまだ言語化しきれていないものを一緒に言語化するようにインタビューし、一緒に言語化するように記事にするのだ。

 

…と、なんだか自分のこだわりがよく分かる1週間だった。

おれはおそらく、「よい」通訳者でも翻訳者でも説明者でもない。ただ、「おもしろい特性を持った」コミュニケーターなのではないかと思う。

役に立つか? それはまた別の価値観の話。