Collaboration Energizer | #混ぜなきゃ危険 | 八木橋パチ

コラボレーション・エナジャイザーとは、コラボレーションの場を作り、場のエネルギーを高め、何かが生みだされることを支援する人

誰か、知っていたら教えてほしい。

 

そろそろ、変えたほうが良くないだろうか?

何がって、タカハシとキノシタである。

 

「まずは弊社役員、タカハシからご挨拶させていただきます」

「それに関しましては、担当のキノシタが説明いたします」

「あいにくツチダは今席を外しておりまして」

とかとか。

 

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日本社会においては、いやもしかしたら他の国でもそうなのかもしれないけれど、同じ会社の人を社外の人の前で呼んだり紹介したりするときは「呼び捨て」がスタンダードということになっている。

外と内を明確に分けることで自分たちが「分を弁えている」ことや、相手を敬う気持ちを持っていることを示すためのものなんだと思う。きっと。

 

「きっと」というのは、はっきりとなぜか説明をされた記憶がないからだ。

ハテ、「されたのに覚えていない」のか、それとも「そもそもされたことがないから」なのか。皆さんは説明を聞いたことがありますか?

そういえば「親のことを『お母さんが』とか『うちのママが』呼ばないように」というのは聞いたことがある。 「幼く見えるからやめましょう。『母が』や『父母が』 と呼ぶように。」

 

タカハシとキノシタに戻ろう。

さっき、目的は、分を弁えていることや相手を敬っていることを伝え示すことが目的なんだろうと書いたけれど、一番大きな理由は今やそれではない。アピールだ。

「私は常識を知っています」というアピール。

 

常識を知っていることはとても重要だと思う。

そしてそれを周囲に示すことも、とても重要なコミュニケーションのプロトコルだということも理解している(つもりだ)。

 

そりゃあ大変だよね。

毎回毎回、これから一緒に仕事したりコラボしたりする可能性がある相手とコミュニケーションをスタートするとき、「常識がある人なのだろうか」を確認するところから始めなければならないとしたら。

 

いきなり何も言わずにタバコ吸いだしたけど…えっ?

この人どうして…ずっとファイティングポーズ取ってるの?

嘘でしょ! どうしてこの人服を着ていないの?

とかとか。

 

でも僕らは、常識が、時が過ぎるのと共に変わっていくことも知っている。 (知ってる? 昔はほとんどの職場は喫煙可で、学校の職員室とかたいてい煙かったんだよ。)

そして、儀式や礼儀というものが時代感から離れ過ぎると、ときにメリットよりもデメリットの方が多くなっていくものだということも理解しているつもりだ。

 

「度が過ぎる」って言葉がある。

外見的なことでいえば、自分らしさを表現するファッションやアクセサリーも、度が過ぎていると嫌われたり常識がないと判断されることがある。

 

「度」はとても難しくて、過ぎてるのかいないのかは個人差が激しい。人それぞれ、かなりのブレ幅がある。

顔面タトゥーやピンクのモヒカン…。片や、女性のスッピンやグレイヘア。

なんでもありだとは思わないし、精神的に怯えさせたり落ち着かなくさせたりするのは自分にも相手にもメリットがないことが多いだろう。

…でも後者はその、なんと言うか、自分がこれまで持っていた価値観にしがみつきたいだけだって言ってもいいだろう。なんだか、生まれつき茶髪の子が校則で黒く染めさせられたみたいな話を思い出させられるね。

 

いろいろ書いてきたけど、言いたいことは1つだけだ。

タカハシとキノシタのこと。

 

そろそろ、常識を変えたほうが良くないだろうか?

今や、外と内を明確に分けることは意味を持っていないのではないか?

明確に分けることがどんどん難しくなってきているじゃないか。

 

あなたの周りにもいないだろうか。複数の名刺を持っていて、ときには「内の人」だけど、別のときには「外の人」になる人が。

例えば、ビジネス・パートナーとして自社の名刺を持っている他社の社員。退社してお客さまになった後に会社に戻って来た自社社員。

 

働きかたやコラボレーションはこれからもどんどん多様化していく。

今後ますます外と内を明確に分けることは難しくなっていくだろう。これはおそらく間違いない。

 

そろそろ、常識を変えたほうが良くないだろうか?

今や、外と内を明確に分けることはリスクが高い。

相手に対して「へり下っていますよ」というメッセージではなく、「内に対してぞんざいな人、会社」というイメージが伝わっているかもしれない。

 

そもそも、相手を敬っていることを示すのに、自分たちを低い位置に置くというのは不自然じゃないだろうか? それはどこか、自分の正しさや強さをアピールするのに相手の意見を貶めることに似ているようにも感じる。

相手が間違ってるからって自分が正しいってことにはならないのに。ね。

 

これは蛇足だけど、でも書きたい。

会社とか社会とかってところでは、役割を演じることが求められることが多いことは知っている(つもりだ)。

でも、だからと言って必要ないときまで役割を演じなくていいし、役に没入する必要はないだろう。ベタな演技が、いつでもいつまでも分かりやすいとは限らない。

 

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「それが常識だから」とか「昔からそういうものだから」という理由だけなら、続けるのはやめた方が良くないだろうか?

とはいえ、私が知らないだけで、続けるべき理由があるのかもしれない。

誰か、知っていたら教えてほしい。

 

Happy Collaboration!