『リリーのすべて』と『ありのままの私』
同性愛がイギリスで犯罪でなくなったのは、1967年になってからです。なんと、私が生まれた1963年には、まだ犯罪だったわけです。
これは、先日読んだ『ありのままの私』という女性装の東大教授として知られている安冨歩さんの本に書かれていたことです。ビックリしませんか?
でもどうやら、Wikipediaで「ソドミー法」を見ると、イギリスの1967年というのは特段に遅かったわけではないようです。
(「同性愛を犯罪と見做す」ことと「ソドミー法」はまったく同じものではないのかもしれませんが。)
先日、映画紹介を見てから気になっていた『リリーのすべて』を観てきました。
1920年代のヨーロッパ(コペンハーゲンやパリ、ドイツ)を舞台にした、実在した画家のカップルをベースにしたフィクション映画です。
映画論をぶつほど分析的に映画を観ているわけではありませんが、そんな私にも、すべてのシーンと映像に意味が込められていると同時に、どこを切り取っても美しくいと感じられるシーンばかりで、完成度のとても高い美しい作品でした。
ただ同時に、トランスジェンダーというテーマを正面から丁寧に取り上げている貴重な作品だからこそ、この映画が実際にはあくまでも実在した人物と出来事をベースとした「フィクションであること」をもっと前面に出すべきだと強く思いました。
(ポスターには「驚くべき真実の物語」と書かれていて、実際に見終わってからいろいろ調べるまで、フィクションの要素がとても強い映画だとは分かりませんでした。)
なぜなら、そうでなければ、映画を観た多くの人がトランスジェンダーを「自分の世界と交わらないどこか遠いところの話」という受け取り方をし、それだけで終わってしまいそうな気がするのです。
(ところで、ストーリーを描きあげている映画は基本的にディテールを「真実」に寄せることよりも、「エンターテイメント」や「美」などに寄せていった結果として完成しているものだと私は思っています。そしてだからこそ、ドキュメントとは異なる感動を与えてくれる作品となり得るのだとも。ともあれ、これはまたいつか別の機会に書こうと思います。)
すでにとてもたくさんの映画評が書かれていますが、私はこの文章に「ああ、私がどう書いてよいか分からずにいたことが、上手に書かれている!」と感じました。
『リリーのすべて』:分裂しそうな内面を動的かつ端正に描く秀作 @ロードショウ・シネコン
上の映画評にも書かれていますが、パリの覗き部屋でのシーンで、主人公の思惑を見てとったストリッパーが女性のしぐさを見せ付けるように教え導いていくシーンは、とりわけすばらしかったです。
ある意味「こてこて」の描き方だとも思いますが、ストーリー全体の中での位置づけとしても映像そのものとして見ても、特筆すべきシーンでした。
『リリーのすべて』についてブログ記事を書こうと思ったのには、もう一つ理由があります。それは、この映画があまり知られていなそうだということ。
そしてなんだか、あっという間に封切りが終わってしまいそうな雰囲気があるからです。比較的子供向けやファミリー向けの映画が多い春休みという時期のせいかもしれません。この時期のR15指定映画が興行的に難しそうなのは想像に難くありませんが…。
私はもともとLGBTへの「理解」はある方だと自己認識しています。
…いや、これは嘘です。実際には、感性でLGBTを理解できていないことにコンプレックスを持っていて、理論や理屈から理解しようと、昔からいろいろ見たり読んだりしているんです。
冒頭に『ありのままの私』からの引用文を書きましたが、最後にもう一カ所同書から引用したいと思います。
「同性愛などということは、人間だけのやる異常な行為だ」と思っている方も多いかもしれません。「種の保存に反することが自然界で見られるはずがない」と思うかもしれません。
しかしそれは違うのです(…)同性愛的行動は、ありとあらゆる動物に、普遍的に見られるのです。何百種類の生き物について学術的な報告があるとのことです
(…)もちろん「動物界で普遍的だから、人間がやっても受け入れられるべきだ」という議論も間違っています。たとえば、たくさんの動物が子殺しを行うことが報告されていますが、だからといって人間の子殺しを受け入れるべきだ、とは私は考えません。
自然は人間の倫理の手本にはならないのです。