働き方改革に足りないのは所属制約からの解放
前回、「働き方改革って、なかなかスッキリと腹落ちする感じは得られません。とりわけ、「組織として」という観点からは。」というエントリーを書きました。
働きかた改革準備 – 「働く」の意味と14の労働価値
会社のルールや制度ができあがるのを待つのではなく、やりたい人やれる人、やりたいチームやれる組織から、どんどんやっていった方が良い。 働くとは? — 自分の体を通じて、誰かのために価値を提供しようとすること
こんな言葉で、個人に対して思うところを書いたり、個人が拠り所にするべき14の労働価値について自分自身を見直してみました。
その後もいろいろな場所で個人や組織と話をしていますが、何かスッキリとしない感じをずっと感じ続けていました。
その「気持ち悪さ」の正体が、ここ数日でなんとなく見えてきた気がしています。
それは、「時間と場所の制約から解放」は与えても、「所属からの解放」は与えないというスタンスの企業がとても多いということです。
「働く時間と場所については、各個人やグループの都合に合わせて調整可能とする、ある程度の自由を与える」 — これが多くの企業が「働き方改革」の名のもとに社員に提供しようとしている、あるいはしたものだと思います。
でも、本来であればそこに「どのくらいの価値と労働力を提供するかを、各個人が所属先と調整して決める」自由も、「所属という制約からの解放」もそこにはあるはずです。
所属からの解放とは、どの組織にどれくらいの貢献をするか、誰に対してどれくらいの自分の労力を費やすかを、自分主体で決められるということ。
一つの組織に100パーセントの力と時間を捧げる、あるいは捧げるフリをすることを前提としたり、要求したりしないということです。
昔は、企業と個人がいわば「親分と子分の関係」だったのかと思います。
「俺の言うことを聞き忠誠を誓っていれば、悪いようにはしないから。お前もその家族も最後まで面倒みてやらあ」 — そんな親分に子分である社員はすべてを捧げているかのように振る舞い、会社と社員はまるで擬似家族のような関係を築いてきました。
でも、もう子分たちは気づいています。いや、本当は親分だって気づいています。
子分がどうしたところで「最後まで面倒みてやらあ」とは言ってもらえないことを。言ってあげられないことを。
だからこそ、100パーセントの力と時間を捧げているフリをしなくて済むように、時間や場所の制約を取っ払い、解放しようとしているわけです。それなのに、所属の制約(あるいは「貢献の制約」という言葉の方が分かりやすいかもしれませんね)だけは、見えない・気づかないフリをしているような気がします。
というか、守れなくなった約束のことは忘れ、「場所と時間の自由を与えたのだから、これまで通り会社優先のポーズをとり続けるように」と言わんばかりだったり…。
私は単に企業の側を非難したいわけではありません。
時の流れと共に状況が変わったのだから、それをきちんと踏まえた「働き方改革」をしようということが言いたいのです。
社員が自分の所属企業を何がなんでも一番大事と考えていないことを前提に、それでもどれくらいの貢献をしたいと思っているのか、そしてそれを実現するためには何が必要なのか。
そして他に貢献したいと思っている相手や物事が何で、それとどうすれば相反することなくやっていけるのか。
社員の側も、その多くは会社に所属し続けたいと思っていることでしょう。
他所への所属欲求や貢献欲求を見せてはならない/見せるべきではないという前提でそれを続けろというのが無理筋だ、ということ。
社員の複数組織への所属を前提とした対話をし、その中でお互いが相手に求めているものをすり合わせて取り決めていくことを前提にするべきではないでしょうか。
実はこの文章、これまでに2回突然消えてしまいました。昨夜、ある程度書いていたものが今朝になったら無くなっていて、今朝、通勤電車の中で書いたものも先ほどメモ帳から跡形もなく消えていました。
そんなわけで、ちょっと頭にきながら書きました。いつもより話の流れが乱暴だったかも?
Happy Collaboration!