もやもやとした気持ちにはなるが、〈どうだったか〉よりも〈どう語られるか〉のほうが強力なのは、言葉のプロのはしくれとして知っているつもりだ。社会はそうやって作られていく。
そして〈どう語られるか〉以上に自分自身に大きく作用するのが、〈どう語るか〉だ。記憶や思考の枠を司るのは、自分の中にいる語り部のその語り口だ。
死、暴力、宗教、憎悪、金、武器、政党歴史…。
選挙の話をしようとするだけで、今回はこれだけのものがほぼセットでついてくるわけで、普通に考えて多くの人が公の場で語りたがらないのは不思議じゃない。というか、語る人というのは何らかの事情がある人なのだろうと思う。
文章と違い、会話においては<但し書き>をしっかり伝えていくのは難しい。そして<但し書きの額面とのズレ>こそが、会話の醍醐味だったりする。
だが、語らないという事実そのものが、〈語るべきではない〉という語り口を強化してしまうのだ。周りをキョロキョロと見渡しながらであっても、何が語られるべきで何が語られるべきではないのかを、まずは考えてみたい。
死
「死は尊ぶものである」そして「死者は冒涜すべきではない」。このマインドセットはおれの中にもしっかりと根付いている。問題は何をもって「尊んでいない」なのか「冒涜にあたる」のかだ。
おれにとっては生者も死者も同じようにリスペクトすべき対象であり、同時に非難すべき対象でもある。
死者が生者と違うのは、どんな非難も罵詈雑言も、決して本人が耳にすることはないということ、そして本人に反論の機会が無いということ。特に重要なのは前者で、おれ自身も含めて人は「相手の耳に届かない」と思うと、かなり乱暴になる。そしてそれは、おれにとってはとてもかっこ悪いことであり、おれはかっこ悪いことはしたくない。
「本人を目の前にそれを言えるか」−− これは生死の問題ではない。簡単な想像力の問題だ。
暴力
「暴力反対」−− すべての日本人が子どもの頃からさまざまな場面で聞かされてきた言葉だと思う。だが現実は「ある程度の暴力は仕方ないもの」とされているとしか思えない行いが、身の回りのあちこちに埋め込まれている。ハラスメントやマイクロアグレッションからテロリズムまで。
…ともあれ、「暴力主義的破壊活動」の究極である人の生命を狙ったテロリズムには全力最大のNO! を突きつけたい。たとえサンデル教授が「暴力のトロッコ問題」を出してきたとしても、その仮定を認めてはいけない(のだと思う)。
宗教
服従、搾取、脅迫。この3つがおれに取ってのカルトの定義かな。新しいか古いかって関係ないと思う。
個人的におれは宗教が嫌いだけれど、おそらく宗教がなくなる日はやってこないのだろう。
政党歴史
これはおれには不足している知識であって、いろいろな話があるし、どれが歴史的な事実なのかを判断するのは簡単なことではないと思う。
…と同時に、そこをああだこうだして現状の「背景」を理解すること以上に、それが今どんな問題を引き起こしているのかが重要なんだと思う。要するに、それが「現在問題となっていない」のなら、まあ別に構わんで良いのではないか、と。
じゃあ何が問題かというと、政治の力で「服従、搾取、脅迫」を正当化したり、見て見ないフリをしたりすることなわけです。そのためには、政治家と政党が「服従、搾取、脅迫」を行なっている宗教団体の代理人であってはならないということ。
「それをどうやって判断するのか」がポイントになるのだろうけど…残念ながらおれには十分な知識がない。「宗教団体からの献金をすべて禁止する」が一番シンプルな気がするけど、それって何か問題あるのかな?
というわけで、今晩のぱちはらダイアログ#51は「民主主義と日本」についての雑談。20時スタートです。
はたしてどんな話になるのか(ならないのか)??