著者の村中直人氏はNeurodiversity at Workの代表取締役で、[一社]人子ども・青少年育成支援協会の代表理事です。そして臨床心理士・公認心理師であり、元スクールカウンセラーとして教育現場にいらしたそうです。
と、肩書き的なものを並べましたが、おれにとって一番のポイントは、とっても感銘を受けた一冊『ニューロダイバーシティの教科書 | 多様性尊重社会へのキーワード』の著者である、ということです。
でも実は、それに気づいていないまま本を手にしていたんです…。
だから、読み始めの序盤では、「ひょっとしてこの著者、何かというと「都合の良い行動心理学的なエピソードを持ち出してくるタイプ? …だとしたら、そういうのちょっと食傷気味なんだよね…」と思ってしまいました(失礼!)。
ですが、実際にはまったくそんなことはなく、学説や調査結果も適切な量を適切な強度で提示してくれていて、そんな心配はまったく無用でした。
■ 本書における「「叱る」の定義
言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為
本の内容ですが、家庭や学校、仕事や人間関係のさまざまな場面に〈叱る依存〉が問題の根っことして巣食っており、構造化して社会に組み込まれてしまっているのではないか。それを解きほぐしていくのにはどうすれば良いか、が論じられています。
そして論じられる社会問題は、「DV、虐待(マルトリートメント)、パワハラ、問題校則、厳罰主義、依存、バッシング」などの多岐にわたっていて、それぞれ〈叱る依存〉との強い関連が「そういうことか!」とスッと入ってきます。説得力高し。
以下にザッとキーワードを挙げておきます。何か惹かれるものを感じる方には強くオススメしたいです。
「なぜ、これまで〈叱る依存〉という人間の根源近くにあるものに気が付かなかったのだろう?」と、この本を読んで不思議に思う方がきっとすごくたくさんいると思います(だからこそベストセラーになっているのでしょう)。
おれもその一人で、これまでそんなふうに考えたことは一度もなく、想像したことすらありませんでした。
「それではなぜ、その視点からの考察におれは辿り着かなかったのか?」について改めて考えると、やはり自覚することなく、「叱るという行為」に自分が大きな特権を与えていたのだろうと思います。それはおそらく、子どもの頃から、権力や権威と強く結びついて行使される場面をあまりに多く目にし過ぎていたから。
特におれの場合、ガキの頃から強烈な反権威主義者だったこともあり、権威者それ自身への批判的な視線が「叱る」というその発露の一つに目がいかなかったのかもしれません。
あるいは、「権威者と自分」という構図が強過ぎて、それを第三者的に俯瞰する目線が持てなかったのかも…。
■ みんなで〈叱る依存〉を正当化する
生存者バイアスに限らず、〈叱る依存〉の正当化につながる言説がこの社会にはたくさんあります。私にはそこに、根強いニーズがあるように感じられます。叱り続けることを、なんとか「正しいこと」「必要なこと」「当然のこと」にしようとしている人が数多くいるのです(…)〈叱る依存〉を擁護したい人たちは、同じ考えを持つ人たちと強く結びつきます。そして、こうした結びつきが、ある種の社会的な影響力を持つようになっていくのです。
いずれにしろ、著者の〈叱る依存〉を「降りてきた」モノ的に捉え、「広く伝える義務」のような役割を感じているという話にも、とても共感しました。これ、人類をアップデートするものだよ!
■ バッシングの背景
叩かれる人は「罰を受けるべき人」「叩かれてもしかたのない人」だという、叩く側の共通認識があるようです。誰かがそのように認定されることで、多くの人の処罰欲求が刺激されるのでしょう。それは直接の接点のない、単なる傍観者にも起きます。処罰欲求は本来、自分たちのコミュニティを守るために存在する感情の働きだと考えられます。しかしながら、現代社会のバッシングや炎上はコミュニティを守るどころか、過度な対立や争いを引き起こし、むしろコミュニティを壊す方向に働いてしまっている場合も多いように思います。
■ 素朴理論との戦い
「人は、苦しまなければ、変化・成長できない」という誤った、そしてとても根深い、苦痛神話とでも呼ぶべき素朴理論からの脱却(…)叱ることがすなわち厳しくすることだ、という認識自体がそもそも誤りです。「厳しさ」の本来的な意味とは、「妥協をしない」ことや、「要求水準が高い」ことだからです。要求水準を高く保つことは、相手にネガティブ感情を与えなくても可能です
■ 「叱る」を自然に手放していくために
まずは、あなたが「権力者」であることを自覚しましょう(…)こうなってほしい」という願いが「こうあるべきだ」にすり変わり、「叱る」と結びつく時、それを誰が望んでいるのか、という主語が不明確になってしまうことが多々あります。特に注意すべきなのは、それが「普通」「常識」「当たり前」という言葉とともに語られるような場合です。
Happy Collaboration!