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公と私のあり方 - インテグリティーとソーシャル・メディア

先週は、珍しく社外の方向けのセッションやプチコンをする機会の多い、ちょっと珍しい週でした。 あ、プチコンは「プチ・コンサルティング」の略です。

 

いつも、こうしたセッションをさせていただいて感じるのが、「誰よりも1番勉強させてもらってるのは自分だなぁ」ということ。

準備とセッションでの喋りで、自分の頭の中がクリアーになってアウトプットができ、QAやディスカッション、セッション後のアンケートなどを通じてたくさんのインプットをもらえる。そしてそれが次のセッションでのアウトプットに繋がっていくという、最高の循環をさせていただいてます。

 

先週のセッションはとりわけセッション中、セッション後のそうした「インプット」が多く、本当にありがたい限りです。

特に、NECさんでの講演後、同社の暗号研究者でいらっしゃる佐古さん(ありがとうございます!)とはメールでいろいろディスカッションをさせていただいています。

そこでのディスカッションを通じて、講演ではうまく伝えきれなかった部分や言葉足らずだった部分が見えてきたので、今回は、「インテグリティーとソーシャル・メディア」について書いてみようと思います。

 

あ、でも、ここに書くことはあくまでも現時点での考えで、この先ドンドンと変わっていくと思います。 進化、成長しなくっちゃね!

 

■ 公と私のあり方 - インテグリティーとソーシャル・メディア

私の基本的な考え方は、「公と私は近ければ近いほど、自分にとって楽だしリスクも少ない」というものです。

ベースにあるのは、極力「常に正直な自分でありたい」ということ。

 

仕事中は立派なことを言い、私生活ではそれとは逆のことを言ったりしたり…。

誰もそんなことしたくてしているわけじゃないと思います。でも、現実には多かれ少なかれ、そうしたことが起こっていますよね。

 

…もちろん、私自分もそういう時が多々あります。でも、こうした「使い分け」に皆さんは疑問を感じませんか?

「まあ、しょうがないもんだよ」って考えはもちろん分かりますし、私自身、そうした言葉をつぶやくことだってあります。

でも、そんな時はいつも、居心地の悪さを感じます。自分に対して言い訳をしているな、と感じるから。 そんな嫌な思いはできるだけしたくないし、あまりそれが重なると、自分を嫌いになりそうです。

人のことも信じられないヤツになってしまいそうです。

 

それならば、最初から「使い分け」しなければ良いんじゃなかろうか。

何も、まったく裏表がないようにすべてをさらけ出せばいいってわけじゃありません。

それは、現実には難し過ぎることだと思います。立場的に言えないことに関して質問をされたり、意見を求められることもあるでしょうから。

 

でも、それに対しても、「それについては立場的にコメントできない」とか「思うところはあるけれど、今はそれを表明できない状態です」と伝えることはできますよね。

2つの顔、そして現実にはほとんどの場合、2つではすまない3つ目、4つ目の顔を持っていると思います。でも、それぞれの顔が乖離すればするほど、その違いを感じた相手は、自分の言葉に対して「これはどの顔で言っているのだろう?」と受け止めるようになり、説得力もなくなっていきます。

 

それよりは、できるだけ同じ顔で過ごしたほうが、結果的に相手からの信用も得られるようになるとは思いませんか?

 

==ここまでのまとめ==

公と私の二つの顔が近ければ近いほど、使い分けを考えなければいけない機会は減ります。逆に言うと、使い分けをしなければいけない機会が多いほど、そこで「ミスする」可能性は高まります。

顔の数が多ければ多いほど、ポリシーの確立や運用は難しくなります。不整合が発生しやすくなり、その人の言葉に対する信頼性や一貫性への疑惑が高まります。

 

これは、ソーシャル・メディア時代の今、特に意識しておくべきだと思います。

■あなたが匿名でソーシャル・メディア上で発信している場合、そしてそれがあなたの「ある顔」での行動に反したものである場合、身元が明らかになった時のインパクトは大きくなります。 (ソーシャル・メディア上かどうかに関わらず)これまでの「実名」での行動に対しても疑惑が浮上します。

■匿名での発言は「叩かれ」やすい要素が強いです。匿名による問題のある発言や行動は、心理的に「こいつはいったい誰なのだろう」という「犯人捜し」に繋がりやすく、それを見つけ出した人が「晒してやろう」という意識になりがちです。簡単に言うと、実名では言えないと思うことや、この場所においては言えないと思うことは、それは言うべきではないことなんだと思います。

 

逆に言うと、「これはどうしても口をつぐみたくないことだ」と強く思うことであれば、それは腹をくくって、責任は取るというくらいの意思を持って実名で発信したほうが良いのではないか、と思っています。

…と、こうした話をしたところ、以下の質問をいただきました。

「隠すべきじゃない」という主張には同意できない。 同じことでも、それを伝えたい相手と伝えたくない相手がいる。たとえば「ジャニーズのおっかけをやっていた」という過去は、気心の知れた仲間にだけ伝えたいもので、広く職場の同僚に伝えたいとは思わない。

これは、私の説明が不足していたことが大いに原因の誤解でした。

「隠すべきじゃない」なんてことはありません。「隠すかどうか」を決めるのは自分自身であるべきで、誰も「強要する」ことはできないし、するべきではない、と思っています。

それを隠したいと思うかどうかは、その人の価値観や判断に基づくものだからです。

 

「この人にだけは伝えたい」と思って伝えたことであっても、相手がそれを守ってくれる保障はないし、絶対にそれを守れと強要をすることもできません(一般論としてであって、契約など法律が関わる話は別かもしれませんが)。

「誰にも言わないでね」と言って伝えることはできます。でも、「この人なら誰にも言わないでいてくれるだろう」というのは、相手に寄せた期待と信頼をベースに、自分自身が行った判断に基づいています。

つまり「自分自身が(意識的であれ無意識であれ)相手が約束を守ってくれないリスクを承知した上で決断したこと」だということです。

 

と、まあ固く書きましたが、個人的にはやっぱり「隠す部分は少ないほうがいいよな」という風には思っています。

特に、例として挙げられている「ジャニーズ追っかけの過去」みたいな話であれば、自分のキャラクターを表わしたり、理解してもらう上でとってもイイ味付けなんじゃない? と思います。

それを伝えることを恥ずかしいと思っていたり、自分に対する誤解が産まれるんじゃないかという不安があるのであれば「恥ずかしいんですけど」とか「いつもミーハーってわけじゃないですよ」ってことと合わせて「このことを伝えることを躊躇している自分」であることごと伝えればいいんじゃないかな。

 

そうしたことが、人と人のコミュニケーションの可能性や、人間関係の拡がりに繋がっていくに違いない、と強く思ってます。


なんだか、書き始めたらものすごく長くなってしまいました。

こんな感じで書きたいテーマがあと4つほどあったんだけど…。

 

しばらくこんな感じで、最近いただいた質問や、ディスカッションしたことをここでアウトプットしていこうかな? どうですか、つまらないですかね?

なお、これまでにも実名制などに関して何度かエントリーを書いていますので、よろしければそちらもお読みください。

pachi.hatenablog.com

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  おまけ: 中学生時代はキョンキョンの大ファンで、ハッピ持ってました!

Happy Collaboration!

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